2019年2月16日土曜日

New project of "佐竹本三十六歌仙絵巻"

Kodai no Kimi (Yamato Bunkakan)
小大君      (大和文華館)



2019年秋に分断されてバラバラになった絵巻が京都国立博物館に集結する展覧会が開かれるというニュース。

旧秋田藩主 佐竹侯爵家に伝来した三十六歌仙絵巻は1919年(大正8年)に分断、軸装され所有者がばらばらになったという。
この絵巻の運命は明治、開国による日本の近代化、社会構造変化の中で、日本美術の受容鑑賞方法に変化をもたらした事件でもある。
藤原公任によって11世紀初めに撰された三十六歌仙、そしてその36人をもとに13世紀鎌倉時代に制作されたという、いわば編集された肖像イラスト付きの本のような美術であると考えるならば、鑑賞形式としてバラバラに個別に鑑賞されてもよいと言えなくもない。現代から見ればその方が民主的と言える。

絵巻物は個人向けに鑑賞されるメディアであるが、ある特定の個人(所有者)によってのみ受容鑑賞されたのだろうか。貸本のように、所有者のつながりの中で回し読み的に鑑賞されたのだろうか。いずれにせよ、庶民の目には触れることのなかったものであろう。
その絵巻が分断され、再集結し博物館で展示され老若男女を問わず庶民にも鑑賞可能となるということではあるが、庶民の鑑賞方法は限定されるだろう。
しかしはたして2019年現在、庶民とはだれかということだろう。見に行く人は、この絵巻物に興味のある趣味人であるだろうし、博物館の入場料金すら日々の生活費の中で生きるためにのみ必要とする者にとっては、たとえ興味があっても二の足を踏むだろう。というかその情報すら耳に届かないかもしれない。つまり、依然として美術鑑賞は特定の生活安定環境にいる人々の間で成り立っているのであり下層民は下層民の中でのコスパによるエンタに時間を消費するだろう。

そういったことをいろいろ考えていると、今、この絵巻をテーマとする新しいプロジェクトとしての作品化は意味深いものであると思う。そこであらわされている雅な世界は誰に向かって発せられるかという問いを含んだ日本美術の現代の作品として。

ISE Satake36poets
伊勢  (個人蔵)



引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%AD%8C%E4%BB%99%E7%B5%B5%E5%B7%BB


歌仙名   1919年当時所有者                              現所蔵先
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柿本人麿   森川勘一郎           出光美術館
凡河内躬恒  横井庄太郎(古美術商)               個人蔵 (狩野探幽筆の補作)
大伴家持 岩原謙三(芝浦製作所社長)           個人蔵
在原業平 馬越恭平(大日本麦酒社長) 湯木美術館
素性法師 野崎廣太(中外商業新報社長) (所在不明)
猿丸大夫 船橋理三郎(株屋) 個人蔵
藤原兼輔 染谷寛治(鐘淵紡績重役) 個人蔵
藤原敦忠 團琢磨(三井合名会社理事長)        個人蔵
源公忠 藤田彦三郎(藤田組) 相国寺承天閣美術館
斎宮女御 益田孝(三井物産社長)                 個人蔵
源宗于 山本唯三郎(松昌洋行社長)           文化庁保管
藤原敏行 関戸守彦 個人蔵
藤原清正 藤田徳次郎(藤田組)                    個人蔵
藤原興風 大辻久一郎 メナード美術館
坂上是則 益田英作(益田孝の弟) 文化庁保管
小大君 原富太郎(生糸貿易商) 大和文華館
大中臣能宣 高橋彦次郎(相場師) サンリツ服部美術館
平兼盛 土橋嘉兵衛(古美術商)   MOA美術館
住吉明神 津田信太郎 東京国立博物館
紀貫之 服部七兵衛(古美術商) 耕三寺博物館
伊勢 有賀長文(三井合名理事) 個人蔵
山部赤人 藤原銀次郎(王子製紙社長) 個人蔵
僧正遍照 小倉常吉(小倉石油社長) 出光美術館
紀友則 野村徳七(野村財閥創始者) 野村美術館
小野小町 石井定七(相場師) 個人蔵(東京国立博物館寄託)
藤原朝忠 小林寿一 (所在不明)
藤原高光 児島嘉助(古美術商) 逸翁美術館
壬生忠岑 西川荘三 東京国立博物館
大中臣頼基 益田信世(益田孝の子) 遠山記念館
源重之 嶋徳蔵(大阪株式取引所理事長) 個人蔵
源信明 住友吉左衛門(15代)(住友銀行創設者)       泉屋博古館
源順               高橋義雄(三越呉服店理事) サントリー美術館
清原元輔 高松定一(3代)(名古屋商工会議所会頭)      五島美術館
藤原元真 嘉納治兵衛(7代目)(白鶴醸造) 文化庁保管
藤原仲文 鈴木馬左也(住友総理事) 北村美術館
壬生忠見 塚本與三次 個人蔵
中務 山田徳次郎 法人蔵

*1919年当時の所有者については、参考文献に挙げた『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』による。
(馬場あき子、NHK取材班『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』、日本放送出版協会、1984)


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7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集であり、天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものとされる万葉集。その中からも三十六歌仙の人物が撰されている。さまざまな身分の人間といっても歌を詠めない人は含まれないだろう。

万葉集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86


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久米の岩橋
2019年11月11日
https://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2019/11/blog-post.html



2019年2月11日月曜日

190209  蜘蛛の糸 @TOYOTA



喜楽亭にて(この画像は展示作品ではありません)



メッセンジャーで案内をいただいたので小島久弥さんの作品を見に豊田の喜楽亭に行く。
絶えず観客が訪れる会場でお茶会の主人のごとく解説を行なう小島さんと、他の観客の後について三つの道行きを順に拝見した。それはあたかも舞台の解説を聞きながら早送りで演劇を見ているような体験である。場にあるすべてのものが、意味付けられ、物語の構成要素にかっちりと納まっていることに多少の息苦しさと、薄暗い中で繊細な展示物を壊してしまわぬよう緊張を強いられる空間は、観客に所作を強いるストレスの高い空間だ。しかしこのストレスは見るということに注力させる鑑賞の所作でもある。が、動員だけを目的にしたフェスティバルでは落ち着かない。緊張を緩めて、この作品を体験するには1~2時間くらいゆっくりとした時間が必要だ。1~2時間、それはあたかも演劇や映画の所要時間である。演劇では観客はアクターの出来事を追うが、この場での主人公は移り行く時間そのものなのだから。しかし、と、再び思い直すと美術館、劇場的な鑑賞方法でない、観客と作品が地続きな空間で、いろりを囲んで親密に談笑する場を主人は求めていたのかもしれない。


小島さんの作品というと、僕はいつも「ソーダ水の中を、貨物船が通る」という、荒井由実の『海を見ていた午後』の一節を思い出すのだが、それは99年の名古屋港倉庫での展示の印象が時間の経過の中で書き換えられた記憶によるのだろう。
僕が小島さんの作品を見るのは今回で三度めで、94年「ポジション」展:名古屋市美術館、99年、アートポート「メディアセレクト」名古屋港20号倉庫、同年同場所での演劇?「LETHE」で、いずれも水の循環の様態を見せるという一貫したテーマがあったが、94年と99年では大きく変化したように見える。よりポエティックに作品の様相が変化したように感じている。今回も循環の様態がテーマで、水をモチーフにしているが実際の水を素材として使用していない。それは文化財である場の制約によるものだろうか?それとも見立てをより進化させた結果であろうか?

小島さんはギャラリーの運営でのキュレーションの仕事や、小島製作所の仕事も行っておられる。このグループ展全体のキュレーターは天野一夫氏だが、喜楽亭の小島久弥の作品にはもう一人のキュレーター小島久弥が舞台監督のように存在している。
ホームページを見ると、今回の三つの場の作品の二つは過去に発表されたものが2019年の社会情勢の中でバージョンアップされ再編集されているのがわかる。数年前に発表されたという喜楽亭の作品と今回の一の間で異なっている部分は土石流に見立てた日焼けした畳の上に展開されたダイオラマと蜘蛛の糸である。


循環に従って、最初の間に戻って床の間を見ると、水害被災現場で救出用のヘリコプターから垂れ下がって被災者を救出するごとく見えていた「蜘蛛の糸」が、不気味な様相を醸し出して見えてくる。
そして、二の間の天井から落ちる雨漏りの雫は、蜘蛛の糸を切った釈迦が悲しんだ涙のように見えてくる。三の間で溜まった水は、極楽の蓮池越しに釈迦が覗き見た地獄か!


小島久弥さん作品の眼より外を見る

絞りエレメントは意外と大きいパネル状で窓枠にはめ込まれている





遠くから喜楽亭を見る

















蜘蛛の糸(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%98%E8%9B%9B%E3%81%AE%E7%B3%B8


2019年2月8日金曜日

Another work in '80 : masking tape drawing with spray painting




"study for INSP-01" 1989 Kiminari Hashimoto /150x250cm /lacquer (matte black,white) on paper




"study for DKN" 1989 Kiminari Hashimoto /130x130cm /lacquer (matte black,aluminium) on paper





"study for INSP-02" 1989 Kiminari Hashimoto /180x308cm / lacquer (matte black) on paper







この画像の作品で使用している紙は、廃材のつぎはぎによるものです。
大量に廃棄される陶磁器用転写紙をもらってきて、それをガムテープでつなぎ合わせて大きい紙にし、その裏に描かれたものです。したがって、描かれた裏面は鉱物顔料によって転写絵柄あるいはべた面による単色色面が印刷されており、表面にはビニールコーティングが施されています。
断層、裂け目のあるレリーフ作品のための原寸下絵、大きさを体感するための練習のようなものです。
大きな継ぎ目のない紙(鳥の子紙や雲肌麻紙)は手元にありましたが高価で失敗を許さないため気軽に練習するためのフィールドとしては不向きであったのです。


小さなプラン下絵から大きな画面に拡大する場合、升目を切ってトレースするといった古典的な手法では、手による(あるいは身体性による)制約が介在し、何かプランと異なる画面に仕上がってしまうことに不自由さを感じていました。アタリを付け、領域を決めて、それに沿ってなぞるという行為に精神の萎縮を感じたのです。
何よりも升目に拡大しイメージを写し取ってゆく行為は面倒であり、ゼロックスコピー機が登場してイメージが、そのまま手を介在せず機械的に拡大される手法を手に入れた70年代後半からの世にふさわしくない感覚です。
下絵をポシフィルムで撮影しスライドプロジェクターで投影、トレースといった方法も試みました。それも又、機械的に拡大されたイメージをなぞる=手によるトレースという工程が、先に述べたことと矛盾しますが、身体性が介在しない行為のように思われて不満だったのです。
つまり描くという行為がイメージをなぞるという不自由さから解放されたドライブ感のある行為として定着されたものにしたかったのであり、大きな画面であっても、数センチ角の画面と同じようにササッとできたような精気を必要としたのでした。

その為に試みた手法は、マスキングテープによるドローイングと直接カットされた型紙を使用したスプレイペイントでした。テープによるドローイングは自動車の原寸図面作成で用いられている手法を参考にし、スプレイペイントはグラフィティアートからの引用です。


ペンや筆を用いない手法は、異なる制約もありますが身体の感覚を直接、表象するには好都合で、しばらくこの手法でいくつかの絵を作りました。80年代の終わり頃です。

スプレイペイントはH.R.ギーガーのエアーブラシドローイングの影響もあったかもしれません。私はギーガーが美術に関わった映画エイリアンのメイキング画集を持っていました。この本は独習で立体化するものにとって多くの情報を提供してくれました。しかし私にとってはギーガーのように三次元的なイメージとボリュームをスプレイによる陰影で描くことには興味がありませんでした。

マスキングテープのドローイングはスプレイによる影が施されている間には見えず、その完成は最後にテープがはがされるまでわからないという偶然性も含んでいました。スプレイによる影はドローイングによる線を意識しながら施されました。
マスキングテープをはがされた時、その線は絵画空間を切り裂く線でもなく、形をなぞる線でもなく、独立した線的なイメージとして線自体による奥行きを保持しつつ、描かれていない白い紙の面と同じ地平にありながらスプレイによる影の中で手前に行ったり、奥に引っ込んだりするイリュージョンをもたらしました。
私はそれが大変気に入ったのです。
ですから、この頃のドローイングは原寸下絵、練習という意味を超えて、独立した絵画と考えるに至りました。



1989 勝川





"study for EMBRYO Ⅰ" 1989 Kiminari Hashimoto /129x117cm /lacquer(matte black,aluminium) on paper

"study for EMBRYO Ⅱ" 1989 Kiminari Hashimoto /129x117cm /lacquer(matte black,aluminium) on paper

"study for EMBRYO Ⅲ" 1989 Kiminari Hashimoto /129x117cm /lacquer(matte black,aluminium) on paper


















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Another work in '80 #01: embryo
https://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2017/09/another-work-in-1986.html



Another work in '80 : shadows spray painting /19870329-0406
https://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2017/09/another-work-in-1987-shadows-spray.html


another work in 1989-1990 Dome project
https://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2016/05/another-work-in-1990.html


Another work in '80 : Painting on wood / Brass corrosion coloring
https://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2017/09/another-work-in-80-painting-on-wood.html



トリのこと ~愛知にくるトリさるトリすむトリ~
https://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2016/10/blog-post_19.html

Another work in '90 / Package series











Another work in '80 / 1986-87 Art work :Kiminari Hashimoto



"Double Embryo" 1986-88 Kiminari Hashimoto/133x94cm/pigment(Gongen-oniita,patina),emulsion on cement panel








untitled / 1987 Kiminari Hashimoto /54x77cm/ pastel,oil stick,lacquer on paper









"Package 26th April 1986" 1988 Kiminari Hashimoto /90x90cm? / pastel,lacquer on paper

2019年2月3日日曜日

190202 百舌鳥耳原図



紙に水彩ペン、ゲルボールペン、筆ペン(B5Campus notebook見開き)


古代、耳形に張り出した三国ケ丘の海岸段丘、石津原に仁徳陵遥拝所に記されている地名起源説話をイラストレイトしてみる。




伝 仁徳帝陵「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」遥拝所、記文には
古、三国ケ丘から海に向かって耳形の海岸段丘・石津原が張り出して居た~
仁徳帝、狩りされた折、現れた鹿が突然、斃れた。不審に思い近付くと、鹿耳を喰い破って百舌鳥が飛び去った~
故に石津原を百舌鳥耳原と名づく成り。

堺市HPによる地名由来によると
百舌鳥(もず)
 日本書紀に次の有名な話が見えます。『仁徳天皇が、河内の石津原(いしつのはら)に出向いて陵の造営場所を決め、工事をはじめたところ、突然、野の中から鹿が走り出てきて、工事の人たちの中に飛びこんで倒れて死んだ。不審に思って調べてみると、鹿の耳から百舌鳥が飛び出し、鹿は耳の中を食いさかれていた。このことから、この地は百舌鳥耳原と呼ばれるようになった。』百舌鳥や鹿のことは、百舌鳥耳原という地名が先にあって、それを説明するために後で考え出された、地名起源説話の一つだと思われますが、これから見ると、このあたりは大昔は石津原と呼ばれていたようです。しかし、いつ頃から、また、なぜ百舌鳥と呼ばれるようになったのか、よく分かっていません。
 「もず」の字は「万代、毛受、毛須、裳伏、藻伏」とも書かれてきました。


古事記では毛受之耳原(もずのみみはら)と表記され、日本書紀では百舌鳥野陵(もずののみささぎ)と表記されている。