2013年6月25日火曜日

2013 spring-summer

5年前から始まった全コースからの選択授業の造形交流演習。
3年前からは同じ内容がイラストコースでの必須になり、週二日、ほぼ同じ内容の授業を二つ追いかけあいながら進行する。






4/12/2013 交流演習授業初日
http://www.nzu.ac.jp/~choukoku/blog/?p=1977

ローズ オニール、トーベ ヤンソン、ベアトリクス ポター
授業初日はいつも3人の女性アーティストの話からはじめる。
挿絵(イラスト)からキャラクターへ、そしてフィギュリンへつなげる百年近く前からのお話。
それからライセンスビジネスと生産現場。その話のすべては、大学にくることになったことになった頃と同時期からの自身の身近な経験と現場の話に基づいている。

今まで多目的な大きな一つの空間だった工房がパーティションによって三つに区切られた今年、圧迫感のある窮屈な環境に。
必要なのは最低限の作業空間ではなく、空間の中で捉えるという感覚。
二畳の小さな部屋の机の上で作られた手のひらサイズのものと、天井高4m近くある二十畳の部屋で作られた手のひらサイズのものとでは、同じ手のひらサイズのものでありながら異なった表れかたをするものである。


4/26/2013 交流演習授業3回目
http://www.nzu.ac.jp/~choukoku/blog/?p=2055

割った竹からへらを作る。手の延長としての道具。
自身の手になじみ、指のように無意識に、身体の一部のように動くようになれば粘土が形になってゆく。自身の身体の一部になる良い道具は、その後、長きに渡りよき伴侶になる。


5/1/2013 イラストコース1年立体表現
http://www.nzu.ac.jp/blog/illustration/archives/1947

蛙目による彫塑。
手に持った感触、指で押さえた時の弾力、可塑性を感じること。
水分を調節し素材の息吹きを感じ取れるようになれば自然に手が動くようになる。
素材の状態を把握できれば、土の方から、次のへら入れの部分をせかしてくるようになる。


5/10/2013 交流演習授業4回目
http://www.nzu.ac.jp/~choukoku/blog/?p=2121

なにげなく紙の上にひかれた自分の線をよく視る、その意味を考える。
紙の上の線を置き換える。空間とそこにある粘土の塊の境界について。
石膏デッサンと逆の作業。翻訳のようなもの。
作ることばかり考えず、半分はよく視るという作業。
絵が描ければ苦も無く立体は作れるし、立体が作れれば絵は描ける。

視ることがそのまま無意識に手に伝わり、道具が身体の一部になり、素材の状態が聞こえるようになれば、紙のイメージが自ずと立体として立ち現れる。



5月末から6月の初め、ちょうど梅雨の頃に型取りがはじまる。


2013年6月15日土曜日

聴覚からの情報

老化が進み、耳が聞こえにくくなると
聴覚からの情報がいちじるしく減少すると、
音に反応する部分と、
言語に反応する部分の両方が退化しはじめる。

横長の大きな絵画 (映像体験としての絵画~曾我蕭白の雲龍図)

視線に対し垂直に対峙する横長に広がる大きな絵画。

大きいという基準は、平面に垂直に対峙した時に、視界に歪まず納まりきらない大きさ。
渋谷にある岡本太郎の「明日の神話」のような、
ボストン美術館所蔵、曾我蕭白の雲龍図(襖絵)しかり。

それは、その平面、イメージが描かれた面自体が遠近法の影響を受けるほどのもの。
横長の中心に立って右側を見る時、
横長の中心に立って左側を見る時、
それぞれからの視点によってイメージは大きく変化する。

蕭白の龍の大きな顔、その漫画的な大きな目とその間の鼻筋。正面と側面が同一画面に描かれているキュービズム的という見方もあるこの顔はどうか。
この顔の正面に立ち、龍の左目を隠すと側面の龍の顔のイメージが立ち現れるが、両目と鼻面だけに視界のピントを合わせれば側面図から正面図に移動する。
里帰りしたボストン美術館展(名古屋)で展示された状態は、この襖絵のすべてのパーツを制作された当時の展示空間に忠実に展示されたわけではないため、より違和感を覚え、焦点は龍の顔のみがクローズアップされる。
しかし、この襖が製作された当時の空間配置で展示されたならばどうだろう。
この想像は、欠落した他の屏風を補完しなければならないが、少なくとも顔の部分についての想像を働かせるなら、この襖を正面から近づいたり遠のいたりという鑑賞法だけでなく、歩きながら正面から側面から移動しつつ鑑賞しなければ本来のこの絵の体験でないことがわかる。
そうすれば、前述の龍の顔が側面図から正面図に移行していく状態が違和感なく受け入れられるのだ。
正面だけでなく対象の側面からの視界の重要性。


私たちは正面から画面全体を視るという西洋近代絵画(タブロー)としての鑑賞方法にあまりにもとらわれすぎている。
特に、蕭白の雲龍図のような日本の、壁に掛けられることを前提としない、タブローでない絵画、を視る作法は西洋近代絵画のそれと異なる。
それは西洋のいう「絵画」というものと別の「視覚体験装置」といってよいものである。


映像の世界ではテレビが登場した時の画面、スタンダードサイズ 3:4 アスペクト比 1.33
その後、テレビに対抗するように映画業界から登場したワイドスクリーンとシネマスコープ。
ワイドスクリーン(ビスタサイズ)は 3:5.55 アスペクト比 1.85
シネマスコープ(スコープサイズ)は 3:7.05 アスペクト比 2.35

映像装置という要素だけを取り出して見るならば、古典的テレビが家庭内空間での額縁に囲われた西洋近代絵画の延長としてのオブジェクトであり、映画は暗闇の中で視界を覆う現実に近づこうとした映像体験装置であった。
その体験は日常空間から出かけて行き、意志的に非日常体験を望む環境で体験される。
映像が投影されるスクリーンからオーディエンスまでの距離にもよるが、オーディエンスの視界は映像の中の出来事を注視していく中でそのフレームの縁は意識されなくなる。
映画の世界ではその中で起こっている映像内時間の体験に注視しながらオーディエンスは静止した視覚での体験を要求される。

しかし、映像投影スクリーンに近い大きさ、比率の絵画の場合、私たちはそれを、一点に静止し鑑賞するのではなく、また、近づいたり遠のいたりして見るだけでなく、行ったりきたりしながら側面からも見なければならない。立ったり屈んだりしながら見なければ本当の制作者の提供しているイメージの体験を共有することはできない。

それは、立体物を正面から鑑賞するだけでなく、その周りをぐるぐるまわることで静止した対象が動き出すという体験に近いものである。


「つまらないこと」あるいは「コンセプチュアルアート・ライト」

つまらないことは、興味や意欲、行動や衝動、あらゆる”人”の行動にネガティブに作用するだけでなく感受性さえも枯渇させる。


栗原はるみ氏曰く。

「決めるからつまらなくなる」

「ルールを作ると嫌いになっちゃう」

「作る人がルール」



完全なる自由を獲得していなければならないはずの「アーティスト」と称する人が時に正反対のことを言い、興ざめする。
狭い地域やソサエティー、わずかの時間的経過を歴史と錯覚したルールに囚われた、真面目に、こぎれいに仕上げられた、不自由な成果物。
狭いルールがレギュレーションの内側で生きていくのは自由だが、つまらないモノや事を再生産することは避けなければならない。
言い換えれば、「アート」に成る可能性を持った成果物は言語化される部分がどれだけ整合性を持って完結しているかが重要なのではない。
言語化されえない得体の知れないデモーニッシュなアニマがないものに「アート」と称するものが入り込む余地はない。
それは「コンセプチュアルアート・マイルド」とか「コンセプチュアルアート・ライト」と呼ばれるタバコの銘柄のようなものにすぎない。

縦長の大きな絵画

87年、シカゴ・アート・インスティテュートでキーファーの展覧会を見た。
その時、垂直に落ちてくる3m以上の縦長の絵画もあった。


「大きい」と言う基準はどこからをさすか。

それは、身体のサイズとその器としての建築インテリアに規定される。


誰かが日本のアートは「四畳半アート」と言った。
住居の階下に制作場として借りていた勝川のアパート1Fは6畳+4畳半+板の間台所2畳。
そこで3m以上の縦長の作品の制作を試みた。


誰かに頼まれたわけでもない作品。自分でそれを見てみたいと欲求したからだ。当然、制作現場に規定される作品は分割して作成するしかない。出来上がりを予想するために横に寝かした状態で写真撮影し、その写真を90度回転させて確認するしかない。しかしそれはあくまでカメラの単眼視。




自分で欲求したそれを、とにかく建築空間内で見てみたいと思った。
そんな時、名古屋の伏見で天井の高い空間を見つけた。
そして、その空間を開いていた二週間借りた。
それが初めての名古屋での個展。






追記:関連ページ ----------
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made from wooden mold 1990 DEC. 木型による陶の生成  2016年5月4日