第4回仏典結集が行われたアルヴィハーラ石窟寺院(スリランカ) |
紀元前1世紀、ヴァッタガーマニー王の時代。それまで口誦で伝えられてきた仏典が、この時、初めてシンハラ文字でパピラに記されたという。
場所はキャンディからシーギリヤへ向かう途中、ダンブッラの少し南。
自然な岩山を利用し、大きな岩をくり抜いて複数の石窟があり、釈迦の様々な段階が仏像とフレスコ画で安置されています。この立体イラストレーションは一般人向けにお釈迦様の教えを説くために作られたのでしょうか。敷地内に広がる複数の石窟は「教え」のダイオラマのようでもあり、それをまわることはテーマパークのようでもあります。
『結集(けつじゅう)』とは
お釈迦様の教えを、弟子やお釈迦様に関係した人達が集まり、整理・記録をする作業のことだということです。
お釈迦様が説法で説かれた教えは口頭で行われたため文字化されていません。弟子達が記憶していただけで、体系的に文書として記録される事がありませんでした。お釈迦様が入滅後、やがてその教えに「歪みが生じ」、「将来的に正しい教えが継承されない」可能性があったため文字化した仏典を作る必要があったということですね。
しかし、文字化による整理、編纂という作業は、ある意味で教えから遠ざかってゆくことだとも感じます。文字化による伝播は、教えを広く伝えながら同時にいくつもの派を生むことにもなるからで、歴史とはまさにそういうものだと感じることもできます。
同じ仏教から発していながら、教義の部分部分が派によって強調されたりして行く中で敵対する集団としての宗教団体がいくつも存在している現代を思うと文字化という作業に複雑な感情を持ってしまいます。
入口駐車場から石段を上って寺院に向かう途中、僧侶に日本語で声を掛けられました。その僧侶は日本へは何度か行ったことがあるといいました。それも名古屋の覚王山日泰寺。不思議な縁を感じました。
ここでパピラの製造工程が見れる施設があるということを帰国後に知り、少し残念な気がしました。
ヤシの葉製の紙、パピラの本 |
パピラの工程は
ヤシの葉を蒸し、日干し乾燥後なめす。
→ 鉄筆で溝をつけるよう文字を書く。
→ 鉄筆で傷つけたところに炭と植物性油脂を混ぜたものを塗る。
→ さらに米粉塗って、磨く。
→ 文字が浮かび上がる。
写真のものはダンブッラ石窟寺院の参道途中、観光客相手の男から買ったものです。案内人のラヒルは古い時代の骨董品ではない偽物だから買わないようにと制止しましたが、パピラの本であることに違いはないのでシンハラ文字で書かれた本形式と紙見本として購入しました。表紙はいかにも端材にオイルステインで古色を装っているが、そんなに古いものでないことは私にもわかります。本の内容はラヒル曰く薬の調合のようなものらしいです。ラヒルの交渉で日本円で約5,000円くらいまで下がりましたが、買った私に何度もラヒルは「ありえない」を連発していました。
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引用元:
パーリ仏典、瞑想などテーラワーダ仏教関連サイト<テーラワーダ・ワールド>
南伝仏教における仏典結集 : 2010/05/05 15:51
http://10620626.at.webry.info/201005/article_2.html
第1回仏典結集 ラージャガハ (インド)
紀元前6世紀(釈尊入滅の年、紀元前543年)、マハーカッサパ(Mah?kassapa)大長老が500人の長老比丘をラージャガハの七葉窟(Sattapa??aguh?)に集め、律はウパーリ長老が、経はアーナンダ長老が唱え、仏説として確認され、以後、口誦で伝えられた。
第2回仏典結集 ヴェーサーリー (インド)
やがて律に対して見直しの要求が出たため、釈尊入滅後100年(または110年)、シスナーガ朝カーラーソーカ王の時、元ヴァッジ国の首都ヴェーサーリー (毘舎離)においてヤサ(Yasa=K?ka?daka putta)長老を座長とし700人の長老比丘を集め、申し立てのあった十事を検討したが、これらすべてを非法として退けた。これが機となり、サンガの根本分裂が決定的となった。
第3回仏典結集 パータリプッタ (インド)
紀元前3世紀、マウリア朝第3代のアソーカ王は、首都パータリプッタにモッガリプッタ・ティッサ(Moggaliputta Tissa)長老を招き、そして1000人の長老比丘を集め開かれた。長老は分別論者(Vibhajja-v?din)を正統とし、それ以外の者を放逐し、これを「カターヴァットゥ Kath?vatthu(論事)」にまとめた。
第4回仏典結集 アルヴィハーラ (スリランカ)
紀元前1世紀、ヴァッタガーマニー王の時、スリランカのほぼ中央に位置するアルヴィハーラ石窟寺院で開かれた。それまで口誦で伝えられてきた仏典が、この時、初めてシンハラ文字でパピラ(やしの葉から作った紙)に記された。尚、北伝仏教においては2世紀クシャナ朝カニシカ王の時、カシミールで開催された。
第5回仏典結集 マンダレー (ミャンマー)
19世紀、コンバウン朝第10代ミンドン王は、仏教の都マンダレーを建設し、首都をアマラプラからここに移し、多くの仏塔、寺院を建設した。そして第5回仏典結集を開催し、仏典をビルマ文字で729枚の大理石の石板に刻ませた。この石板による世界最大の仏典は、現在、クドードォ・パヤーの中の729の小仏塔の中に1枚1枚納められている。
第6回仏典結集 ヤンゴン (ミャンマー)
1954~56年に、釈尊入滅2500年を記念して各国から僧を招き、ラングーン(現ヤンゴン)郊外のカバエにて開催されたが、この時の会場は、第1回結集が行われたラージャガハの七葉窟をイメージして、半地下のような人口洞窟の構造が採られた。この時の質疑応答において、マハーシ長老は大長老方の前での質問者の役を担われた。