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2018年2月17日土曜日

Proudly handmade in Sri Lanka


下記リンクはスリランカの陶器メーカーMidayaのホームページです。プロダクトの様々な工程が紹介されています。スリランカには大きな工場は数件しかないので、アウトソーシング無しであらゆる工程を工場の中で行います。創業者は愛知県の瀬戸地方などで研修された方で、安価な中国製品とは競争しないという姿勢で運営されているときっぱりおっしゃっていました。
僕は90年代中頃に、ある医薬品関係のノベルティとして30㎝大のオリジナルキャラクターの人形をこのメーカーで作ったことがあるのですが、5年前の工場訪問時に、当時の見本を発見してすっかり忘れていた記憶に再開し感慨深いものがありました。

 90年代は中国の深圳、東莞などで安価な農民工による労働力を活かし「世界の工場」と呼ばれる時期が始まった時代ですが、その後の労働環境の整備などによって人件費が高騰し、今ではこの地域に残る質の良い陶磁器メーカーはわずかです。そんな状況の中でスリランカのミダヤの姿勢はメーカーとしての覚悟が感じられ尊敬します。僕はその背後には中国、韓国、日本などに浸透している大乗仏教的な態度と、スリランカの生活に密着している上座部仏教のちがいにあるのではと推測します。

Midaya - Proudly handmade in Sri Lanka
http://www.midaya.com/

2014年6月12日木曜日

鏡の回廊 ~ Mirror Wall of SIGILIYA Rock


シーギリヤ・ロックの中腹にある回廊の壁はミラー・ウオールと呼ばれる。
ふもとから見上げると、天然岩山にひときわ目立つ直線的な人工構造物が、この岩山がただならぬ場所であることを主張している。
カーシャパ王朝の頃(5世紀)のもの。
高さ約3m 。真珠のような輝きと鏡のような光沢がある。
ミラー・ウオールの上部は、シーギリヤ・レディのフレスコ画があるパインティング・バンド。

「地球の歩き方」によれば、レンガを芯に漆喰が塗られ、その上に大量の卵の白身と蜂蜜と石灰を混ぜたものが上塗りされ、その表面を磨きあげて造られた、という。

蜂蜜なのか、蜜蝋のことか?

壁の反対側の岩壁には美女のフレスコ画があり、このミラー・ウオールに映る仕掛けになっていたらしい。

この壁にはダートゥセーナ、カーシャパ、モッガラーナの興亡物語の叙事詩や、壁画の乙女たちの姿やシーギリヤ・ロックの雄大さを称える詩が彫られている。
7~11世紀の間にシンハラ文字で685点の感嘆の詩でありシンハラ語の発展形態を示しているとして注目されている。








History of SIGIRIYA Rock
http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/06/history-of-sigiriya-rock.html


SIGIRIYA LADY ~ Paintings of the Apsara celestial nymph
http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/06/sigiriya-lady-paintings-of-apsara.html

2014年6月7日土曜日

History of SIGIRIYA Rock

ダンブッラよりの遠望。向かって右がシーギリア・ロック。左の山はシーギリヤ王朝以前から僧の修行場所だった。
山全体が5世紀カーシャパ王が建立したピドゥランガラ石窟寺院 Pidurangala Cave Temple。


ジャングルの中に突如姿を現す、天から落ちてきたような隕石のごとく巨大な岩山。
岩山の大きさは南北約400m 、高さ約180m 。
シーギリヤ・ロックは古代から仏教僧たちの修験場であったという。
この岩山のインパクトは富士山と同じく、周りに山々が連なる場所でない平坦なジャングルに、いきなり姿を現すことだ。
そしてその頂上に5世紀後半、この地を統治したカーシャパ王によって、頂上に王宮が造られた。
わずか11年間の王宮。
実父ダートゥセーナ王を殺し、強引に王の座についた若き王子カーシャパは、腹違いの弟モッガーラーナの復讐をおそれ、シーギリヤ・ロックの頂上に狂気ともいえる王宮をわずか7年間で築いたという。










カーシャパ王の伝説 -----------

カーシャパの父ダートゥセーナ王 King Dhatusena はタミル人からシンハラ人に王権を取り戻した偉大な王として459~477年にアヌラーダプラを統治。広大な貯水池を建造した。
カーシャパ Kasyapa はダートゥセーナ王の長男。腹違いの弟、モッガラーナ Moggallana の母親が王族の血筋であったのに対しカーシャパの母は平民の血筋の女性だったという。
そのため、カーシャパは王位継承権を奪われるのをおそれ、実父を監禁し王位を剥奪する。弟モッガラーナはインドに亡命する。
隠し財産をすべて出すよう父に要求したカーシャパは、「建設した貯水池カラー・ウェワ Kala Wewa こそが唯一の財産」と言う父の返答に怒り、家臣に命じて父親を殺させてしまう。
その後、後悔、苦しみ、復讐の恐れからか神がかりになったカーシャパは切り立った岩山に宮殿を建造し、7年後、玉座をその頂上に置いた。
そして11年後、インドから戦いを挑んできたモッガラーナに破れ、495年、カーシャパは自ら命を絶つ。

モッガラーナはシーギリヤの王宮を仏教僧に寄進し、首都をアヌラーダプラに戻した。

埋没していたシーギリヤ・ロックの宮殿が発見されるのはカーシャパ王が死んで約1400年後、イギリス植民地時代の19世紀後半。



中腹の投石機。カーシャパ王の時代から、斜面に1000年以上保った状態。


整備された手すりや石段を登って約40分で頂上へ。
1.6ヘクタールに及ぶ宮殿あとが広がる。

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天から落ちてきたような巨大な岩、王位継承の争い、狂った王、天空の城。。。。

現地に立ち、この伝説を想うと、あまりにも宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」に酷似している。
ネットで検索してみるとマチュピチュなどその舞台となった場所がいくつか挙げられているが、シーギリヤほどイメージとストーリーが似ているところはないと思うのだが、どこにもその記述は見あたらない。

どこかで見た風景。この風景を見て、ダ・ヴィンチの受胎告知に見られる直線的な人工構造物と遠景の風景を思い出す。その絵が透視図法と空気遠近法で描かれながら、どこか奇妙に感じていたのは視線の位置である。標高の高くない平坦な土地にある建物から遠景をこのように見渡せるだろうかという疑問が奇妙さの原因であるが、ここシーギリヤロックの頂上のようなところからの視線であれば納得がいく自然な視界である。つまりダ・ヴィンチが描いた受胎告知のロケーションは高地あるいは遠く海まで見渡せる高台にある建物を近景としている、と発見する。
シーギリヤロック頂上南東よりの視界。手前はカーシャパの父ダートゥセーナ王が築いた貯水池 Sigiriya Wewa 。
遠くダンブッラの岩山あたりのスコールを見る。
頂上から南の視界。ジャングルと流れる雲。カーシャパが見たであろう風景と変わらない光景。
頂上から西南の視界。 water garden を望む。



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SIGIRIYA LADY ~ Paintings of the Apsara celestial nymph
http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/06/sigiriya-lady-paintings-of-apsara.html

鏡の回廊 ~ Mirror Wall of SIGILIYA Rock
http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/06/mirror-wall-of-sigiliya-rock.html


2014年6月6日金曜日

SIGIRIYA LADY ~ Paintings of the Apsara celestial nymph

オレンジ色の直線的な壁はやはり5世紀に作られた鏡の回廊 Mirror Wall 。
シーギリヤ・レディの壁画群はその上の黒い覆いで囲われている部分にある。風雨による侵食から壁画を守るため後代、造られたもの。鉄製の螺旋階段が二つ見えるが、当時はどのようにこの部分まで昇ったのか。

シーギリヤ・レディはスリランカの中心にあるシーギリヤ・ロックに描かれた5世紀のフレスコ画の通称。
標高約 200m のシーギリヤ・ロックの中腹の 100mあたりに幅140mにわたって壁画帯をなす。
壁画帯は岩山の西面にあり北東コーナーまで約140m 、高さ40mの範囲に広がる。
イギリス統治下の1875年、この岩山を望遠鏡で眺めていたイギリス人が発見したこの壁画は現在、保護のためシートで覆われているため下からは見ることができない。
この絵を見るためには約1時間弱かけて狭く急勾配の石段で岩山を登らなければならない。
フレスコ画のある岩面まではふもとから約20分。




岩の中腹から、1938年にイギリスが造ったという古い鉄製らせん階段で壁画のあるオーバーハングした壁面を目指す。
人一人がやっと昇れる幅、金網で囲っただけでところどころ腐って穴が開いている。
急勾配の階段は、このまま、このたよりげない構造物ごと外れて中空からまっさか様に落下するのではないかと、足がすくむ。

螺旋階段を昇りきるとそこがpainting band 。
鮮やかな色彩で女性を描いた壁画はそこにある。
かつて500人の女性が描かれていたというが、現存するのは18人。
発見されるまで風雨にさらされていたために侵食されたり、仏教施設時に修行の妨げになるとけづられたり、1967年のバンダル人の攻撃ではがされてしまったりということらしいが、それにしても鮮やかな色彩を保って現存しているのはフレスコ技法による保存性の良さからくるものか。











ところどころ輪郭線は二重になった部分が見受けられる。後世の加筆のあとか。
当初描かれた線は朱赤褐色系で、解剖学的にも忠実な複雑に入り組んだ肉体の輪郭が見られるのに対し、後世に加筆された輪郭線はより暗い茶褐色で強く、単純化され概念化された輪郭線で描かれている。

「地球の歩き方」によれば、岩肌に、もみがらやカーボナイト(有機繊維)を混ぜたターマイトン土(粘土の一種)で塗り固められた下塗り後、石灰と砂を混ぜた粘土で中塗りし、最後に前の層より厚めに、蜜蝋の混じった石灰でなめらかに上塗りする。とある。
上塗りされた面に、野菜や花、葉、木の汁などを材料にした、赤、黄、緑の顔料で美女たちの姿が描かれている。とある。


アンコウスティーク?

上記引用は、かなり専門知識を持った人による執筆のようであるが、海外の研究書からの引用か?上塗りに「蜜蝋の混じった石灰」とあるのはアンコスティークのことか。
ポンペイ壁画のように、フレスコ技法で描かれた後、さらに蜜蝋を塗って磨きあげるという技法と同じものか?その場合、上塗り漆喰には蜜蝋は混入されず、上塗り描画後にさらに蜜蝋を塗り熱で溶かすというものである。実際の壁面を見るとそれほどの艶は認められない。
蜜蝋は本当に混ざっているのか?

壁画のある painting band のすぐ下には同じく5世紀に作られた鏡の回廊 Mirror Wall がある。
ふもと西側から岩山を見上げれば、自然岩山の一部にひときわ目立つ人工的な直線による壁が見える。この壁は漆喰の上に卵の白身、蜜蝋、石灰を混ぜたものが塗られ磨きあげられたものという。
その技法との関係によっているのか。蜜蝋混入の古代フレスコ技法の一種か。


フレスコ

ルネサンス期に盛んに描かれ 「新しい」「新鮮な」を意味するイタリア語の "fresco"を語源とするフレスコは、煉瓦や石を組んだ壁などの支持体(壁)に漆喰を塗り、その漆喰が生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く。顔料は漆喰が乾く課程で石灰と一体になる。
漆喰(石灰)の化学変化 <石灰(炭酸カルシウム)→焼成→生石灰→加水→消石灰(水酸化カルシウム)→気化→炭酸カルシウム> を利用した描画法であり顔料は接着剤としての樹脂など媒材を用いないため発色がよく、顔料は壁と一体化するため高い耐久性を持つ。
水に溶けない炭酸カルシウムの性質が発見されたのはいつ頃からか。
ラスコーの壁画なども洞窟内の炭酸カルシウムが壁画の保存効果を高めたと言わている。
シーギリヤレディの壁画の保存状態の良さもまた炭酸カルシウムの効果が大きいであろう。


石下地

壁面の剥離した部分を見ると塗られた漆喰層はかなり厚いのがわかる。約 5cm はありそうだ。

「石の下地はコンクリート下地などより安定性があるとされる。石は吸水性、保水性ともにほとんど無いから、乾燥は塗られたスタッコ自体の乾燥と吸水だけに左右される。
それゆえ、フレスコ画描写において自由にコントロールできる壁を作るには、かなり厚めのスタッコにしなければならない。なぜなら塗ったスタッコの乾燥は表面からの水分の蒸発よりも、下地に吸水されることによる乾燥のほうが大きいからである。石下地は厚めのスタッコを作っても、十分にそれを支持できる強固な下地である。」
~丹羽洋介著「フレスコ画の制作」美術出版社1979年発行p.31より~


石下地のフレスコは強固で耐久性に富む。
絵画としての作用空間としてみれば、均質な平面でない、起伏の在る岩壁であることから、見る視点によって複雑な空間を生む。
スリランカの寺院は自然岩山や洞窟を利用した石窟寺院が多く現存し、いずれにも岩窟壁画が見られる。ただ、シーギリヤの壁画は寺院にある仏教世界を描いたものでなく、肉感的な女性群像である。天国に住む妖精アップサラか、上流階級と侍女を表したものかなど諸説あり。
いずれにせよ女性群像は腰から上の部分しか描かれておらず、腰から下は雲のようなイメージで空間に浮いている。宇治平等院鳳凰堂壁面の雲中供養菩薩像のようなイメージを想わせる。(平等院の創建は永承7年 1052年、藤原頼通が平安初期から貴族の別荘だったところ宇治殿を寺院に改めたのが始まりとされている。時系列からシーギリヤの壁画が何らかの影響関係があるかもしれないと夢想するがそれはまた別の話)
<追記>http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2017/08/blog-post.html





複数の雲に乗った天女(妖精アップサラ)がシーギリヤ・ロックの中腹を取り巻くようなイリュージョン。発見された当時、ふもとからこの壁画群が見ることができたという状況を想像してみる。





岩壁と壁画。
ミラーウオールに反射させた壁画もあったという。

客体としての平面に対峙して見るという絵画体験に慣れ親しんだ近代以降。
映像的な空間、装置としての絵画、と見るとさらに興味深い課題が浮かび上がる。


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洞窟壁画では薄暗い空間が身を包み、映像的な絵画が視点からの距離を忘れさせ、見る主体という存在は曖昧になる。胎内回帰。
洞窟と壁画。につづく
そして、描写法における法隆寺金堂壁画との関係。

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*ターマイトン土
http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/06/termite-clay.html

*エンカウスティーク(アンコスティック、アンコスティーク)
http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/06/blog-post_10.html

History of SIGIRIYA Rock
http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/06/history-of-sigiriya-rock.html

鏡の回廊 ~ Mirror Wall of SIGILIYA Rock
http://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.jp/2014/06/mirror-wall-of-sigiliya-rock.html
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2014年6月5日木曜日

仏典結集~第4回仏典結集(スリランカ、アルヴィハーラ石窟寺院)


第4回仏典結集が行われたアルヴィハーラ石窟寺院(スリランカ)


紀元前1世紀、ヴァッタガーマニー王の時代。それまで口誦で伝えられてきた仏典が、この時、初めてシンハラ文字でパピラに記されたという。
場所はキャンディからシーギリヤへ向かう途中、ダンブッラの少し南。
自然な岩山を利用し、大きな岩をくり抜いて複数の石窟があり、釈迦の様々な段階が仏像とフレスコ画で安置されています。この立体イラストレーションは一般人向けにお釈迦様の教えを説くために作られたのでしょうか。敷地内に広がる複数の石窟は「教え」のダイオラマのようでもあり、それをまわることはテーマパークのようでもあります。


『結集(けつじゅう)』とは
お釈迦様の教えを、弟子やお釈迦様に関係した人達が集まり、整理・記録をする作業のことだということです。
お釈迦様が説法で説かれた教えは口頭で行われたため文字化されていません。弟子達が記憶していただけで、体系的に文書として記録される事がありませんでした。お釈迦様が入滅後、やがてその教えに「歪みが生じ」、「将来的に正しい教えが継承されない」可能性があったため文字化した仏典を作る必要があったということですね。

しかし、文字化による整理、編纂という作業は、ある意味で教えから遠ざかってゆくことだとも感じます。文字化による伝播は、教えを広く伝えながら同時にいくつもの派を生むことにもなるからで、歴史とはまさにそういうものだと感じることもできます。
同じ仏教から発していながら、教義の部分部分が派によって強調されたりして行く中で敵対する集団としての宗教団体がいくつも存在している現代を思うと文字化という作業に複雑な感情を持ってしまいます。


入口駐車場から石段を上って寺院に向かう途中、僧侶に日本語で声を掛けられました。その僧侶は日本へは何度か行ったことがあるといいました。それも名古屋の覚王山日泰寺。不思議な縁を感じました。
ここでパピラの製造工程が見れる施設があるということを帰国後に知り、少し残念な気がしました。

ヤシの葉製の紙、パピラの本 

パピラの工程は
ヤシの葉を蒸し、日干し乾燥後なめす。
→ 鉄筆で溝をつけるよう文字を書く。
→ 鉄筆で傷つけたところに炭と植物性油脂を混ぜたものを塗る。
→ さらに米粉塗って、磨く。
→ 文字が浮かび上がる。

写真のものはダンブッラ石窟寺院の参道途中、観光客相手の男から買ったものです。案内人のラヒルは古い時代の骨董品ではない偽物だから買わないようにと制止しましたが、パピラの本であることに違いはないのでシンハラ文字で書かれた本形式と紙見本として購入しました。表紙はいかにも端材にオイルステインで古色を装っているが、そんなに古いものでないことは私にもわかります。本の内容はラヒル曰く薬の調合のようなものらしいです。ラヒルの交渉で日本円で約5,000円くらいまで下がりましたが、買った私に何度もラヒルは「ありえない」を連発していました。






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引用元:
パーリ仏典、瞑想などテーラワーダ仏教関連サイト<テーラワーダ・ワールド>
南伝仏教における仏典結集 : 2010/05/05 15:51

http://10620626.at.webry.info/201005/article_2.html



第1回仏典結集  ラージャガハ (インド)
 紀元前6世紀(釈尊入滅の年、紀元前543年)、マハーカッサパ(Mah?kassapa)大長老が500人の長老比丘をラージャガハの七葉窟(Sattapa??aguh?)に集め、律はウパーリ長老が、経はアーナンダ長老が唱え、仏説として確認され、以後、口誦で伝えられた。

第2回仏典結集  ヴェーサーリー (インド)
 やがて律に対して見直しの要求が出たため、釈尊入滅後100年(または110年)、シスナーガ朝カーラーソーカ王の時、元ヴァッジ国の首都ヴェーサーリー (毘舎離)においてヤサ(Yasa=K?ka?daka putta)長老を座長とし700人の長老比丘を集め、申し立てのあった十事を検討したが、これらすべてを非法として退けた。これが機となり、サンガの根本分裂が決定的となった。

第3回仏典結集  パータリプッタ (インド)
 紀元前3世紀、マウリア朝第3代のアソーカ王は、首都パータリプッタにモッガリプッタ・ティッサ(Moggaliputta Tissa)長老を招き、そして1000人の長老比丘を集め開かれた。長老は分別論者(Vibhajja-v?din)を正統とし、それ以外の者を放逐し、これを「カターヴァットゥ Kath?vatthu(論事)」にまとめた。

第4回仏典結集  アルヴィハーラ (スリランカ)
 紀元前1世紀、ヴァッタガーマニー王の時、スリランカのほぼ中央に位置するアルヴィハーラ石窟寺院で開かれた。それまで口誦で伝えられてきた仏典が、この時、初めてシンハラ文字でパピラ(やしの葉から作った紙)に記された。尚、北伝仏教においては2世紀クシャナ朝カニシカ王の時、カシミールで開催された。

第5回仏典結集  マンダレー (ミャンマー)
 19世紀、コンバウン朝第10代ミンドン王は、仏教の都マンダレーを建設し、首都をアマラプラからここに移し、多くの仏塔、寺院を建設した。そして第5回仏典結集を開催し、仏典をビルマ文字で729枚の大理石の石板に刻ませた。この石板による世界最大の仏典は、現在、クドードォ・パヤーの中の729の小仏塔の中に1枚1枚納められている。

第6回仏典結集  ヤンゴン (ミャンマー)
 1954~56年に、釈尊入滅2500年を記念して各国から僧を招き、ラングーン(現ヤンゴン)郊外のカバエにて開催されたが、この時の会場は、第1回結集が行われたラージャガハの七葉窟をイメージして、半地下のような人口洞窟の構造が採られた。この時の質疑応答において、マハーシ長老は大長老方の前での質問者の役を担われた。