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| 2014 0109 07:10 |
2014年1月9日木曜日
2014年1月4日土曜日
記憶の人人~後々田寿徳さんとの時間
訃報
後々田寿徳さんを偲んでウッディ・ヴァスルカ個展(ICC 1998)のカタログ序文を読み返す。
後々田氏との時間。
1993年のふくい国際ビエンナーレの時、福井県立美術館で学芸員だった氏に、当時、バカのように大掛かりな、時にコンデンサーを爆発させるような作品を作っていた厄介な私の作品の設営、メンテ等で大変お世話になった。
クールなメディアアートと対照的な私の作品に、バカだな~といった眼差しでニコニコと手伝っていただいた。
ちなみに、この時の別室ではダムタイプの"S/N"#1がスタイリッシュにインスタレーションされ、設営作業中の合間に存命だった古橋悌二氏が、やはり呆れ顔で私の作品をながめて立ちすくしていたことを思い出す。
1999年のキリンコンテンポラリーアワードのオープニング翌日、受賞者の束芋と板倉亜由子を連れ立って、アポなし飛び込みでICCを訪ね、ランチを一緒に。
状況に悲観的な後々田氏の意見と、福井時代とは異なるかっこいい風貌に変身していた氏が記憶に残る。
この時が氏に会った最期。
リアルでは、ほんの数回、時間的には数時間のことなのだが、忘れられない記憶に残っているひとがいる。
合掌
----------------
梅香堂日記 http://baikado-diary.sblo.jp/
大友良英氏ツイッターより「美術と音楽のあいだ」後々田寿徳氏執筆(リア29号より)
http://hiwihhi.com/otomojamjam/status/419169831166816256
https://twitter.com/otomojamjam/status/419176784236519424/photo/1
https://twitter.com/otomojamjam/status/419177281743884288/photo/1
此花区 梅香堂
http://www.youtube.com/watch?v=fejaAhMooCo#t=152
後々田寿徳さんを偲んでウッディ・ヴァスルカ個展(ICC 1998)のカタログ序文を読み返す。
後々田氏との時間。
1993年のふくい国際ビエンナーレの時、福井県立美術館で学芸員だった氏に、当時、バカのように大掛かりな、時にコンデンサーを爆発させるような作品を作っていた厄介な私の作品の設営、メンテ等で大変お世話になった。
クールなメディアアートと対照的な私の作品に、バカだな~といった眼差しでニコニコと手伝っていただいた。
ちなみに、この時の別室ではダムタイプの"S/N"#1がスタイリッシュにインスタレーションされ、設営作業中の合間に存命だった古橋悌二氏が、やはり呆れ顔で私の作品をながめて立ちすくしていたことを思い出す。
1999年のキリンコンテンポラリーアワードのオープニング翌日、受賞者の束芋と板倉亜由子を連れ立って、アポなし飛び込みでICCを訪ね、ランチを一緒に。
状況に悲観的な後々田氏の意見と、福井時代とは異なるかっこいい風貌に変身していた氏が記憶に残る。
この時が氏に会った最期。
リアルでは、ほんの数回、時間的には数時間のことなのだが、忘れられない記憶に残っているひとがいる。
合掌
----------------
梅香堂日記 http://baikado-diary.sblo.jp/
大友良英氏ツイッターより「美術と音楽のあいだ」後々田寿徳氏執筆(リア29号より)
http://hiwihhi.com/otomojamjam/status/419169831166816256
https://twitter.com/otomojamjam/status/419176784236519424/photo/1
https://twitter.com/otomojamjam/status/419177281743884288/photo/1
此花区 梅香堂
http://www.youtube.com/watch?v=fejaAhMooCo#t=152
2013年12月18日水曜日
note 131216 / from the train window
00分発21000系に乗れなかったおかげで22600系のゆったりした喫煙室で、映像体験空間、映像の始まり、ツーリズム、鉄道についてあらためて考えるきっかけになった。
fb-橋本 公成
2013年12月14日
note 131214 / @ smoking room
00分発21000系に乗れなかったおかげで22600系のゆったりした喫煙室で、映像体験空間、映像の始まり、ツーリズム、鉄道についてあらためて考えるきっかけになった。
fb-橋本 公成
2013年12月14日
曲面ガラスで区切られた部屋は水槽のようでパノラマ感あります。客席より快適。
00分発難波行き21000系は停車駅が最小限のアーバンライナーです。
停車駅が多少増える30分発は21000系もありますが運がよければ座席や喫煙室が綺麗になった22600系に乗れます。
という訳で新幹線じゃなく近鉄特急のお話でした。ちなみに1号車。
2013年11月16日土曜日
project "SNAKE LEGS" プロジェクト「蛇の足」
最後の授業
「蛇に足があるように物語には続きがある‥‥」
小説「顔本」の冒頭の言葉から発想したプロジェクト。
この小説自体が蛇足であるのだが、あらためて「蛇足」ということについて考える。
物語は続く。それは「類」としての物語であるが、その「大きな物語」に「個」としてのアプローチを加えることで大きな物語自体が転覆するようなテロのような意味を、時に持ってしまう場合がある。
つまり人類の歴史とはこのようなものなのだが、あらためて「蛇足」という視点から物語りをクローズアップすることでより顕在化するプロジェクトである。
ここで言う物語には小さな個としての物語もふくまれれば「歴史」というすでに顕在化し多くの人が共有していると信じている大きな物語も含まれる。
リノベーション自体に言及しているプロジェクトでもある。
既存の簡潔している作品に余分に追加してそれ自体が脱臼してしまうもの。
作品は芸術全般に限らずあらゆる日常に適用できる。
完結している小説などの物語の続きを書く。
完結している絵画に余分なものを付け足す。
完結している日常品に余分なものを付け足す。
などなど
「蛇に足があるように物語には続きがある‥‥」
小説「顔本」の冒頭の言葉から発想したプロジェクト。
この小説自体が蛇足であるのだが、あらためて「蛇足」ということについて考える。
物語は続く。それは「類」としての物語であるが、その「大きな物語」に「個」としてのアプローチを加えることで大きな物語自体が転覆するようなテロのような意味を、時に持ってしまう場合がある。
つまり人類の歴史とはこのようなものなのだが、あらためて「蛇足」という視点から物語りをクローズアップすることでより顕在化するプロジェクトである。
ここで言う物語には小さな個としての物語もふくまれれば「歴史」というすでに顕在化し多くの人が共有していると信じている大きな物語も含まれる。
リノベーション自体に言及しているプロジェクトでもある。
既存の簡潔している作品に余分に追加してそれ自体が脱臼してしまうもの。
作品は芸術全般に限らずあらゆる日常に適用できる。
完結している小説などの物語の続きを書く。
完結している絵画に余分なものを付け足す。
完結している日常品に余分なものを付け足す。
などなど
追記:240228 -------
しかしこのプロジェクトが厄介なのは本歌取りのように、元の芸術を芸術でなくしてしまう暴力的な場合もあるということである。
場合によって修復という名目で行われることもあり、付け足しに限らず、洗浄という名のもとに元の芸術を洗い落としてしまう場合がある。ダビンチ先生のアヅレーションが洗浄により無残な状態にされたように。
「類」としての記憶とDNA
plugged in
(media select 2001の声明文をさがす)
すべてのものはデータ化される。
そしてそれはクラウド上で共有される。
それでも人は一つの成果物を見るために何万マイルも旅をする。
それはデータからアウトプットする物質に対するフェテェシズム?。
本当に自分が対象、空間に向き合って体験を欲望すること?。リアル
もはやそこには領域は無い。
「領域を超える」とは、「世界」の観察者が、どこに立っているかの立ち位置を表明すること。
それは「世界」の観察者の方法論にすぎない。
もはやプライバシーは存在しない。
unplugged
それでもすべてのものはデータ化されない。
そしてデータ化されないものはクラウド上で共有されない。
個人のプライヴァシーが崩壊したインターネット社会ではプライヴァシーという概念がなくなる。
クラウドコンピューティングの環境では繋がった個の記憶の共有が、自と他を分ける感覚が希薄になり大きな類の記憶に置き換えられる。
大きな物語としての歴史でなく、小さな物語の莫大な集積ビッグデータで満たされる。
クラウド、それはあたかも類としてのDNAの外在化、顕在化のようなものである。
~幸村真佐男氏のアーティストトーク 130823@N-mark 参加後に記
(media select 2001の声明文をさがす)
すべてのものはデータ化される。
そしてそれはクラウド上で共有される。
それでも人は一つの成果物を見るために何万マイルも旅をする。
それはデータからアウトプットする物質に対するフェテェシズム?。
本当に自分が対象、空間に向き合って体験を欲望すること?。リアル
もはやそこには領域は無い。
「領域を超える」とは、「世界」の観察者が、どこに立っているかの立ち位置を表明すること。
それは「世界」の観察者の方法論にすぎない。
もはやプライバシーは存在しない。
unplugged
それでもすべてのものはデータ化されない。
そしてデータ化されないものはクラウド上で共有されない。
個人のプライヴァシーが崩壊したインターネット社会ではプライヴァシーという概念がなくなる。
クラウドコンピューティングの環境では繋がった個の記憶の共有が、自と他を分ける感覚が希薄になり大きな類の記憶に置き換えられる。
大きな物語としての歴史でなく、小さな物語の莫大な集積ビッグデータで満たされる。
クラウド、それはあたかも類としてのDNAの外在化、顕在化のようなものである。
~幸村真佐男氏のアーティストトーク 130823@N-mark 参加後に記
2013年11月15日金曜日
光琳の松島 2
から続く
再び光琳の松島図の模型を見ていて、あらためて推測したことは、左三曲と右三曲でイメージの視覚体験が異なることについての発見である。
それは、この屏風の中心に座って見る人の右眼と左眼の視覚、両眼視の視覚について関係するのではないかということだ。
ちょうど中央の折れ線を境に岩の描き方が、左三曲と右三曲で異なるのだが、右三曲の岩は光琳ではない誰かによる加筆であるという説が一般的である。それは左三曲の描き方のように塗り残しの輪郭線によって面が区切られず、面と面が片ぼかしによって接する描き方になっているからであるが、そのことが右三曲が遠景に、左三曲が近景に見える効果を表していることもまた事実であり、塗り残しの輪郭の無い片ぼかしによる右岩山は誰かの加筆によらずとも輪郭をつけない表現であったことが推測される。
座って左三曲を見ると、海岸の砂浜に立って海を見たときのように水平線が視線の上にあり、海が盛り上がって見えるのに対し、立ってこの屏風を見下ろすと右三曲は崖から見下ろした時の遠景の視界が広がる。
そして、この屏風の中央に座って見る時、右三曲と左三曲はそれぞれ右眼と左眼に対応する。
右眼は右三曲を左眼は左三曲を見ている。と思って見ている。
網膜では上下が反転し、脳みその視覚領では再び上下反転する。
それよりも横長のこの屏風を見ている視野が分割された網膜像として右眼と左眼に入った視覚情報が右脳と左脳の視覚領にどう認識されるか。
つまり両眼視で見るこの屏風のイメージは、両眼視における視覚認識を意識したか、していないかに関わらず、左右のイメージ認識についてを実践図解したような絵画になっているのではないか。
両眼視は遠近の認識に効果を発揮するのであるが、この屏風絵は左右に異なる視点で描かれたことにより、より奇妙な遠近認識を生むことになる。
つづく
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