2016年5月9日月曜日

day #21309: 160508



160508


せっかち

収穫

笑う芍薬

ほーっ ほけきょ



160418
160430


葉が出る前に色ずく梅
昨年枝打ちしたせいか今年は実を多くつける
屋根に覆いかぶさっていた桜の古木が切られ
境界の雑木林がなくなる
崖を落ちる太い幹が窓ガラス直撃と
連絡を受け行ってみるとすでに新しい窓
一週間で鬱蒼と雑草
草刈りをしていると ホーッ ホケキョ
皐月の時間は速い

今年もせっかちな収穫
今年もほったらかしの雑草の中、芍薬一輪


シャクヤクの根は葛根湯にも含まれる生薬
そして詠みかえる



せっかち

収穫

笑う芍薬

かっこんとう








2016年5月8日日曜日

160508 warehouse


another work in 1989-1990 Dome project




installation view at Aichi Prefectural Museum of Art  1990/11/05




























架空の博覧会「PEACE EXPO'95」のconcept book /1990/original print photo, text/
S.T.A.R.T展 (1995) イギリス巡回中に行方不明になり現在に至る。



2016年5月4日水曜日

「荒野の修行 隠遁生活」 同時代の絵画 雪舟とレオナルド

洋の東西で似たような絵画が描かれた

修行する達磨、修行する聖ヒエロニムス
みずからを石で打つヒエロニムス、みずからの左腕を切断する慧可
ライオンと達磨

『慧可断臂図』 雪舟等楊筆 室町時代 明応5(1496)年 愛知・齊年寺

情報出典:
http://intojapanwaraku.com/2300

引用>
禅の画題として有名なこの絵は、坐禅する達磨に向かって、神光(のちの慧可)が弟子になるためにみずからの左腕を切断する場面が描かれている。画聖・雪舟(せっしゅう)77歳の大作。
国宝『慧可断臂図(えかだんぴず)』 雪舟等楊筆 明応5(1496)年 愛知・齊年寺 
※5月3日~22日展示


『聖ヒエロニムス』 レオナルド・ダ・ヴィンチ 1480~1482年頃 Rome, Pinacoteca Vaticana



情報出典:
http://ameblo.jp/davinci-codex/entry-11170527576.html

引用>
ヴァチカン美術館の絵画館(Pinacoteca)第9室
ヒエロニムスは340年頃にダルマティアで生まれた神学者で、重病にかかったことがきっかけで、神学の研究に生涯をささげることを決意し、シリアの砂漠で隠遁生活を送ってヘブライ語を学んだ。その後 ローマ滞在中にラテン語訳聖書の決定版を生み出すべく、全聖書の翻訳事業にとりかかった。この聖書が中世から20世紀の第2バチカン公会議にいたるまでカトリックのスタンダードであり続けた「ウルガータ」訳聖書となる。
384年に書かれた書簡の中で、聖ヒエロニムスはこう綴っている。
「私のそばにはサソリと野獣しかいませんが、時折私は可愛い少女たちに囲まれているように感じ、凍って瀕死状態にある私の肉体の中に欲望の炎が燃え上がります。そのために私は泣き続け、厄介な肉体を何週間も飢えさせているのです。私は主が心の平成を復活させてくれるまで、しばしば朝から晩まで胸を叩き続けています。自分に対する怒りと厳しさのために、さらなる荒野へと突き進んで行きます。渓谷やごつごつした山や険しい崖を見つけると、跪いて祈り、私の罪深い肉体に対する天罰としてそこへ向かいます。」 
レオナルドはこの場面を端的に描いており、やつれた聖ヒエロニムスの心臓のあたりが内出血したように黒ずみ、右手には石を持っている。右下にいるのは、聖ヒエロニムスがかつて足の棘を抜いて助けたライオンである。
当時のフィレンツェではライオンが飼われていて、シニョリーア広場で狩のイベント等が行われていた。レオナルドの解剖手稿には「かつて私はライオンがどのように子羊を食らうかを見たことがある。フィレンツェでのことで、そこには常時25から30頭のライオンが飼われていた。ライオンは2~3回舐め回すことによって子羊の体を覆っている毛皮をすっかり剥がしてしまい、こうして丸裸にした後で食べるのである。」と書かれており、実物を観察した上で描いたことが推測される。 
この作品が未完成となった原因は、次の「東方三博士の礼拝(マギの礼拝:これもまた未完成のまま放置されてしまうのだが…)」の制作依頼が来たためとも言われている。
------------------
聖ヒエロニムス 情報出典:
http://www.louvre.fr/jp/oeuvre-notices/%E3%80%8A%E8%81%96%E3%83%92%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%80%8B

引用>
「聖ヒエロニムス(347-420年)は、西方カトリック教会の四大博士の一人である。ヴェーネト地方で生まれ、ローマで学び、聖ダマスス法王の命で、ヘブライ語の原書を基にした聖書と、70人訳聖書のギリシア語版の、ラテン語への翻訳を担った。彼の翻訳したものは『ウルガタ』と呼ばれる。ヤコブス・デ・ウォラーギネの『黄金伝説』によると、ある日聖ヒエロニムスが彼の修道院の修道士に聖書を説いていると、傷ついたライオンが現れ、その傷ついた足を聖ヒエロニムスが治してやったという。この挿話は、ヒエロニムスに名前がよく似た、5世紀のパレスチナの隠修道士、聖ゲラシムスの人生から借用されたものである。」

拡大解釈された「構造色」

構造色について

wikiによれば構造色とは以下のように定義されている。

引用>「構造色(structural color)は、光の波長あるいはそれ以下の微細構造による発色現象を指す。・・・それ自身には色がついていないが、その微細な構造によって光が干渉するため、色づいて見える。・・・色素や顔料による発色と異なり、紫外線などにより脱色することがなく・・・」




初めてこの言葉に出会ったのはカワセミの金属光沢の羽根を調べていた時だった。
カワセミの(あるいはカラスの)金属光沢のある蒼は、その羽根を石でたたいて潰すと発色が失われるという知識を、実験した時の興奮が、「この世には青色の物質は存在せずすべて青に属するものは構造で青に見えているに過ぎない」という早とちりにつながった。
そして、レオナルドの「聖アンナと聖母子」に見られるトルコがかったぼんやりと発色している衣部の認識ともあいまって感動したのだった。天然土系の絵具、イエローオーカー~ライトレッド、インデアンレッドにいたる鉄由来の色と異なる波長の色の存在について。
その頃(80年代初頭)は、油絵のチューブ絵具で絵を描くのをやめ、日本画の岩絵の具に興味をもって、その発色を実験していた時でもある。野鳥観察のフィールドワークと、「油彩画の科学」から発展した岩絵の具の粒子の大きさの違いによる発色についての研究。この二つの異なるカテゴリーについて、同時に虜になっていた私は、この「構造色」という概念を、拡大して考えてみようと思うに至る。彩色方法を「拡大された構造色」として観察する。

若冲生誕300年ということもあってか、昨今、若冲の絹本に見られる裏彩色ばかりが超絶技法と紹介されるのに少し違和感を感じるのは、その「金色に見える」という技法が必ずしも絹本の裏彩色だけによるものでないと思うからであるが、「拡大された構造色として」としての彩色方法を見たときに、真っ先に思い浮かぶのは若冲の鳳凰図などの裏彩色であることも否定できない。


■ 若冲の裏彩色
鳳凰図や鸚鵡図に見られる白(胡粉)と金(絹目と黄土裏彩色)
絹本での黄土の裏彩と胡粉の表彩(細い筆による羽根の線描き)による構造色
黄土がひかれた部分とひかれてない部分。黄土がひかれた部分に表から薄墨がひかれた部分とひかれてない部分。それぞれの部分の上に表彩で胡粉で描かれた細い線描。
絹目の隙間から覗く黄土の屈折率と胡粉の屈折率。絹目の点はオフセット印刷における網点のような役割を帯びている。鑑賞者がその絵に対峙して見る時、細かい点描のような黄土と絹目の点は、点として眼に届かず、点がまじりあった面として眼に届く。
この印刷における網点効果が後に、モザイクタイルのような桝目描きに発展していったこと。
絹本の絹目部分を拡大した視覚体験として絵画化すること。そのように考えれば桝目描きによる若冲の絵の効果は唐突なものではなく、また特別な絵画様式でないことが容易に想像できるのだ。


■ 若冲の薄墨をひいた絹本地と未彩色部分(塗り残しの輪郭)

>(以下途中未完)


■ 紙本による構造色~金箔金泥の使用と、金を使用せず金に見える彩色

1)金が使用された部分は何を表しているか?~俵屋宗達筆「住吉図屏風(松島図屏風)」
金は光のハイライトを表す部分に用いられているか。
金は情景の中で記号として用いられているか。

2)金が使用された部分は何を表しているか?~「洛中洛外図屏風」


■ 紙の地色、白(胡粉)、金(金泥彩、金箔、金砂子)
紙の地色と白という色について。光を反射する色について。紙本彩色による薄墨と金泥彩の使用について。


「松島図の波の研究」 和紙に墨彩と胡粉、金色ペイントマーカー(真鍮粉塗料)で描かれたものをスキャン。スキャンによる光源が原稿台の和紙と胡粉で描かれた部分の差をなくしている。下図のデジカメ撮影によるものとの違いに注意。





同上、和紙に描かれたものを 100 mm 望遠で太陽光下でデジカメ撮影したもの。太陽光源から届く光は和紙の地と胡粉の違いを際立たせる。光源からの距離と屈折率。


松島図にみる金泥と金箔の使用(宗達と光琳)。紙本彩色による薄墨と金泥彩の使用について。
鳥の子紙に描くことを行っていた当時に発見したことは、黄味がかった白い紙に薄墨がひかれたところが強い反射光によって金色に見えることだ。
その両側により濃い墨彩がある場合、より一層、金色に見える。しかしこれは相対的なことで、本金泥の彩色の横に並べられればウォームグレイに見える。
金箔地の横にあれば、反射どころか金地よりも奥まったところに後退して見える。
紙の地色のままの部分と薄墨をひいた部分。紙の上にある薄墨は微細な墨の粒子がオフセット印刷の網点のような効果をもたらす。

胡粉の屈折率と金泥の屈折率


紙本に描かれた部分と金箔が貼られた部分を見る
順光で屏風に光が当たるとき、描かれた部分は逆光になり、


>>

物質の物理科学的な変化が起こるフィールドとして、その時間的経過(変化)が同時に同一平面上で観察できるフィールドとして、その場に立ち会うという体験が絵画であるという考えに至った。

そして私が考える構造色による絵画とは、チューブ絵具をのせた平面にとどまらない、その場で実際起こる、たとえば光琳の紅白梅図屏風の流水文部のように明礬でマスキングした銀の腐蝕工程を見せるようなものも含む、化学変化の「場」と観察者が出会う「時」のことである。





made from wooden mold 1990 DEC. 木型による陶の生成


 鋳込み、手オコシに限らず陶器で立体物を生成する場合、石膏型を使用するのが一般的で大量生産には効率的であると理解していました。焼成前の粘土に含まれる水分が石膏に吸収されるという特性を利用した石膏凹型は、形の複製が容易に可能だからです。
しかし粘土の水分を吸収するということを考えれば、石膏に限らず木でも可能です。
そのことを知ったのは常滑の資料館だったかで見た建築用テラコッタの木型に出会ったからです。明治村にあるフランク・ロイド・ライトの帝国ホテル外壁用レリーフタイルだったような気がしますが、記憶があいまいで違うかもしれません。



wooden mold for “package Ⅱ” 1990








 ここに示す木型は当初、大きな壁面レリーフ作品の縮小模型を作って個展で展示しようとしたものです。大きな壁面レリーフは図面を描いて合板などを切り出し、板と粘土顔料焼付+洋箔貼りで木部パネル部は作られています。制作時に図面を作成していたので正確に縮小することが可能でした。
 しかし、大型作品の複製縮小版を作ることに興味がなくなり、むしろ、その縮小サイズで素材を陶に変えて展開することにしたのです。
この時思いついた木型による複製作成は陶による展開と決めたことで、機械的に複製を行うのでなく粘土の可塑性を活かすことによる制作へと展開しました。一つづつ起こされた生成物が異なるよう一回性の印しをそれぞれに彫刻することでした。
 木型は粘土の水分を吸うので、一つ起こすたびにバーナーの火であぶって強制乾燥させます。その結果、凹型の木目がより強調され起こされた粘土には木目がより目立ち、結果、陶であるのに木で作ったようなイリュージョンがその表面に現れます。この効果と粘土の可塑性を活かした一回性の印としてのアドリブカービングが合わさってこのシリーズの土台が生成されました。




"packageⅡ- 008,009,010  (unfinished)" Kiminari Hashimoto /DEC.1990 /stone ware


"package Ⅱ- 001, 002, 003, 004, 005, 006, 007" Kiminari Hashimoto  / 42x28x9 cm each / 1991 / stone ware, brass, aluminium, circuit board  


この時、凹型から10個の陶のベースを作成し、壁面レリーフとして展示可能なように仕上げた7点を1991年の初めての個展で展示しました。3点は陶のベースの状態で今に至ります。
「package」というタイトルはICチップのパッケージからの素材関連と、陶による表現を追求していた金沢美大の先輩でもある久世健二先生が「パッケージシリーズ」と作品シリーズで使っていたことに対する、オマージュでもあります。私なりの「パッケージ」という概念に対する表明でもあったのです。


installation view  1991
installation view ' packageⅡ-007 '

木型のもとになった大型レリーフ(部分)

 この1991年、名古屋での初個展は大型のレリーフ作品と小品数点でしたが「情報と人間」をテーマにした立体イラストレーションといったようなものでした。四角い形状はICチップをイメージし、それを拡大したものです。それに亀裂が入ったり、直接人体のパーツ(それらも陶磁で作られています)が接続されたように表象されています。陶素材によるパーツが多いのはICチップとの相似関係によっています。



1990/12/22 @瀬戸権現山窯
1990/12/27 @瀬戸権現山

 この作品の制作当時は瀬戸の友人、加藤貴幸さん宅で陶器の窯づくりなどに熱中していました。また、陶磁器ノベルティ商品開発の会社でのサラリーマンでもあったので入社後10年で陶磁器に対する知識や経験(主に工場でのプロダクトに関することやプロトタイプの作成)はそれなりに深まってもいきました。石膏の型屋さんが社内にいたこともあり、そこに押しかけての体験など型を使った表現が身近な方法でもあったのです。



day #20862: 150213 波の研究








2015/02/13

2015/02/13



1990/08/28 notebook

day #21277: 160406 20年目の新学期初日




数えてみると20年目の新学期初日
イラストデザインコースでいきなり立体表現の授業
オリジナルキャラクターのデザインとその立体化、フィギュア制作の15週

イメージの立体化はイメージに属す
ゆえにその立体は平面である
僕はそう思っている

粘土の可塑性
樹脂、プラスチックという素材概念
彩色された立体
それらは、素材の物質感が希薄であるという意味でも絵画的だ
3Dでありながら2Dである
立体でありながら平面である

言語を補足する挿絵(=イラストレーション)は言語より情報量が多い
言語を翻訳するイラストレーション
2Dのイラストレーションを翻訳する3Dの立体
概念→イメージ→物質化
それもまたイマージュ
絵画的だ

ギリシャ彫刻を模刻するような、3Dから3Dへの倣いはしない
古典絵画を模写するような、2Dから2Dへの倣いはしない
ギリシャ彫刻を石膏デッサンするような、3Dから2Dへの変換はしない
ここでは、2Dから3Dへの翻訳をするのだ