2020年11月22日日曜日

201114 小説「感染」第三章 <大神少年テレビと裸の王様>


<ぼくちゃんの疑問>

 『ねぇ、ママ 1回かかっても、またかかるとか、何回もかかるっていうのは、いわゆるふつうのカゼと同じじゃないの? なぜみんなそんなあたりまえのことにきづかないの?』


『そうねぇ、ぼうや、落ち着いて考えたらおかしなことだとみんな気づくはずなのに不思議ねぇ。』


『 むすこよ、お前にはまだ難しいかもしれんが、Fake news とわかっていても、世の中がそちらに動き出せば、その架空の物語に沿って行動しなけりゃ経済的恩恵も受けられず、生きてゆくことさえできなくなるのさ。父さんも、フェイクとわかっていても生きていくために給付金の申請をしてお金を受け取ってしまった。だから、今になってはもう無いとは言えないんだ。ないことを証明することはあることを証明するより難しいのさ。大きくなったらおまえにもわかる。』


『どおして?! どおして「王様は裸だ!」 って言ったらいけないの?!』


『それが物事が成立するということだよ。』

『文明とは物事が成立したことによって成り立っている。

そして、成立したものが歴史というのだよ』


 "Breath" 1999 kiminari Hashimoto




<老師との会話>


「まあ、よく考えてみなさい。仮に『95%超の効果』と宣伝されている薬を体内に入れたとしよう。それで君は症状が回復した。めでたしめでたしというわけだ。
しかし一方で、薬を体内入れなかった場合でも数日で症状が回復したとしたらどうだろう。薬を投与して回復したのか、自身の免疫力によって回復したのか。
一方の方法を選択すると、もう一方を選択することができない。未来に起こる結果を今選択できないんだよ。
その時、君はその効果を薬によるものだと判断できるのかということだよ。
シュレディンガーの猫のような実験だね。それも全世界で実践する猫実験。

つまりだ、国民がすべて薬を入れてしまった状態が作られて感染が収まった時、君はもはや薬による感染の終息か、人々があらかじめ自身の体内に持っている自己治癒力による終息か、つまりメディアによって宣伝されていたほどの重篤な感染「病」の実態があったのかどうかということさへも 誰も証明できなくなる。


かなり時間がたっているんだけれど、私たちはみなメディアによる情報でしかいまだにその病気を知らないんだ。
二進法のバイナリーディジットの世界では電子が一個あるか、ないかで世界は認識できると考えられてたけど、「一コの場所にいろんな状態で存在できる量子によるコンピュータ(=量子コンピュータ)ではシュレディンガーの猫状態」注① なんだから、まったく別の世界が同時に存在してるということをこれほどまでに実感を持って感じたことはなかったよ。


「つまり老師は、今、この時も新しい感染病の脅威にさらされている状態と、まったくそんなものが存在していない状態という正反対の世界が同時に存在している<シュレディンガーの猫状態>だとおっしゃりたいんですか!?」


「物事が成立するということは、素晴らしく素敵な出来事でもあるし、ある意味本当に恐ろしいことだねえ。」





<大神少年テレビと裸の王様>


世の中では大変なことが起こっている。「たいへんだー!たいへんだー!」と大神少年が叫んでいる。テレビの中だけの出来事だったのが、今では見てる人々の頭を攻撃して、すっかり世の中は「大変だー!時代」になってしまった。
僕は生きているうちに、これも伝聞でしか知らないんだが、戦時中のような言論統制、言論封鎖、行動制限のような、おかみが民の行動をどうこうすることを体験できるとは思わなかったよ。放送局、新聞社が大声で叫んでることはあの頃と変わらないようなんだけれど、「おかみ」「大神少年」「王様」「王様は裸だと言った少年」の主体や関係が、童話時代とは大きく異なるんだ。

大統領は4年前から一生懸命、何度も何度も
「王様は裸だ!王様は裸だ!」
と叫んでいたんだが、この時の「王様」というのは現代の民主主義的共同体運営社会では「民」のことなんだということにみんな気づいていないということが悲劇的なことだったんだ。

しかしよくよく考えれば赤子でもわかるように、私たちは自由気ままに生きられるわけはなく、生き物として誕生してからあらゆる不自由を背負わされている。

「生きてゆくのは大変なことやなぁ」というのは八十を過ぎた母の口癖なんだけれど、生きる活動と書く「生活」を継続して実践しようとすることは、本当に大変なことなんだ。君はまだ二十代前半だから老いぼれが何を言ってるとはなで笑ってるだろうが、実際君も大きなけがをしたりしてひと月くらい寝たきりになってみればわかるよ。筋力が衰えるということは日常的な最低限度の行動、例えば起き上がってトイレに行って用を足すとか、食事をするために噛むとか、普段当たり前のように感じることもなく行ってる行為が、改めて大変な筋力と酸素を必要とする行いなんだということが。僕は父の最期の三か月を付き添って、本当によくわかったよ。というのもこの時からすでに自身の身体に起こっていたことである異変、その時は機能不全によるものと考えず、もっぱら運動不足の生活習慣病としか思ってなかったんだが、今は身をもって体験している。

ついつい生活習慣病と言ってしまったが、そもそも「病」というものは多かれ少なかれ生活の習慣に原因がある生体反応であるのだから、同語反復、当たり前のことを言っているにすぎないんだ。
この当たり前のような事実、いくら個人の脳みその範囲で考えたり、好き嫌いを言ったり、「いやだー!」とか叫んで駄々をこねても、どうしようもないことがあることは誰もが分かっている。それが個体の肉体の「死」という現象なんだけれど、今起こってるおかしなこともこの当たり前のようなヒト個体にとって避けられない前提を恐怖によって人質に取られた脳みそが感染してる状態なんだ。

そう、君も感じてるけど補助金や上司の目を意識して口に出せないことはわかっている。

ばかげたことと言ってしまっては亡くなる方には申し訳ないが、ヒト個体は高齢になって生命維持できなくなった器官の老化、劣化によって死ぬし、病気にかかっている人(基礎疾患がある人)の方が健康な人より死ぬリスクが高い。このことは今、騒動になっている<感染>という現象について放送局が強調して煽っていることなんだけど、このこともまた当たり前のことを言ってるに過ぎないよねぇ。

そして、この病を規定している特別な症状や後遺症など報道されてるけど、僕の周りではどこにも見当たらないんだよ。
いや、見当たらないっていうのはちょっと違うな。味覚障害や倦怠感、咳、のどの痛みとかって所謂一般的な風邪をひいた時起こる症状なんだけど、新しい名前を付けられた病に「感染した人」が言ってることはこれと同じことを言っていて、もっともらしい語り口でテレビに登場するんだけど僕には何を言ってるかよくわかんないんだよね。




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注① 
【量子コンピューターの衝撃】基軸通貨が変わる!?【深田萌絵】【WiLL増刊号 #091​】(2019/11/03)
https://www.youtube.com/watch?v=q-NkrWEcwYM

関連
この世界が仮想現実であることを示す証明式 (2017/04/01)
https://www.youtube.com/watch?v=nv7WQqJLru0




2020年11月14日土曜日

201114 今日の服装



今日の服装。自宅からオンライン。
+ハーフミラーとスマホでTeamsを開けば視線ずれずに手元作業ができるだろうに。しかしガラケー。
とりあえず養生テープで固定。20年前はもっちょっとメカメカしく作ったのに。。。まぁ、三脚より良いかもということで。。




fb-橋本 公成
2020年11月14日

2020年11月8日日曜日

201108 小説「感染」第三章~第三波~選挙投票~


 

夜中に目が覚めるとラジオがBD爺さん確定のニュースを伝え、あぁ~と落胆しながら再び寝入ってしまったが、5時間後に起きるとUSメディアが一斉に勝利を伝えている。

あぁぁなんということだ。

裸の王様は寅さんではなく、寅さんこそが「王様は裸だ!」とfake news teams の仕掛けた世紀最大の虚構のオフレコを暴いたのだ。

時にその虚構を利用しながら、時に自身がその被害者になってみせながら。しかし梅爺チームの結束はあらゆる組織に入り込んで戦う相手としては巨大すぎるし、4年間のうちに寅さんの唯一の情報発信だった公正だと思っていたプラットフォーマー痛痛ア~も発言を検閲するパブリッシャーに変わってしまっていた。

一週間前、大阪市区の赤と青に区分された投票結果に一喜一憂したが、覚悟のなさを、潔さにミスリードさせる結果後の記者会見を見て、反対を望んだのは正しかったと安堵したが、陣取り合戦に見せかけた世界戦争とは、あきらかに次元が異なっている。

寅さんは梅爺さんとプロレスしていたのではなく、4年前からFake news teams と戦っていたし、今も戦っている。


2020年7月13日月曜日

今、感じる恐怖 ~「新しい日常」が「成立する」





振り返ってみれば、

メディアによる中国武漢のおぞましいパンデミック映像から始まり、日本でのクルーズ船に人々の目が釘付けになっている中、準備は着々と進んでいたのだろうか。
かく言う私も年齢的な条件もさることながら呼吸器系に疾患を抱えているので、迫りくる現実的な死の恐怖が日々増大し家に引きこもっていた。とは言うものの、もともとが自宅での個人事業で仕事の依頼や納品はメールや宅急便がほとんどだから、引きこもり生活はそれほど新たな習慣ではなかった。それでも街に出なければならない用事は一定程度あり、しかしそんな時も公共交通機関には一切乗らず外出はもっぱら原付バイクであった。だけどそれもまた、以前と変わらない行動なのだ。
ただこの時期のことを想いかえすと、私が現実的な恐怖に囚われたように、私より上の世代の人が皆、映像と情報によって恐怖に洗脳されたのだ。世代間の分断。演繹法で現実社会を観察する、自身の立つ足元を見る、という姿勢を公言し私がリスペクトしていた芸術家までも。である。それほどまでに人の大脳に直接影響を与える映像と情報の力は絶大なのだ。

世界規模で、すべての人が参加するコロナ禍という一大イベントにとって、オリンピックなど小さな出来事にすぎない。しかし象徴性があるので、それも利用しなくてはインパクトがないだろうとでもいわんばかりに「開催は無理だろ」「いやそんなことになれば大きな経済損失に」など、にわか評論家の大衆に偽装した意見がメディアでにぎやかに宣伝され、それを見る大衆もまた、メディアウイルスという新型ウイルスによって大脳がじわじわ侵されていった。そんな中でも準備は粛々と整ってオリンピック延期が発表されるや否や「withコロナという新しい日常」が晴れてめでたく成立した。

それはあまりにもスムーズに進行したので、あらかじめ準備されたシナリオどおりの出来事のように見えた。帰納法によってあらかじめ設定された未来に誘導するため、都合よく情報が選択、発信されているようにも見えた。感染症は方便で、経済低成長時代のガラガラポンなのか?、一向に進まぬデジタル産業革命の最終段階の仕上げ?、ビックデータによるAIデジタル管理社会 IoTに完全移行する強硬突破?のように感じたものである。しかし一方で、地球規模の人、モノ移動拡大という文明の方向が、グローバル化の方向を強制終了し、大きく舵を切った転換の時代に立ち会っていると、今、この大転換という時に生きていることにある意味ワクワクもしていた。
時代の大きな転換期に立ち会うということは、物事が「成立する」とはどういうことかを現実に自身の身をもって実体験することなのである。

「成立する」とは、それはひとたび成立してしまうと、正しさ、正しくなさは問題ではなく、流れと逆の方向に行こうとするものを排除する。今や新たな感染症は存在しないなんて誰も言えなくなってしまった。「新型コロナウイルスと言われているものは誤って、あるいはある意図をもって遺伝子バンクに登録された、誰もが自分の体内のもつ常在ウイルスの一種であり、それをPCR検査すれば検査しただけ感染者が見つかる」(1)なんて言おうものなら頭がおかしいか、陰謀論者とレッテルが貼られ袋タタキにあう勢いだ。
世の中の多くの人々が何の疑いもなく信じることとして成立してしまった出来事に、対抗するような異なる分析を見る者は、権力者によって抹殺されるのではなく、大衆によって殺される。その様子を想像すれば皮肉にも外部からの異物としてのウイルスに対する免疫作用のようだ。しかしこれは正常な免疫作用だろうか。サイトカインストームのように自身の免疫が変異した誤った情報異物に反応してしまってるのではないか。
今、マスクをせずコンビニに行くことは感染症の恐怖ではなく、みんなと同じことをしないことに対する他者の視線の恐怖である。「マスク警察」「自粛警察」に対する恐怖である。
身体にチップを埋め込んで個人情報の管理検閲といった大掛かりなことをやらなくてもできる、なんとコンビニエントな個体管理(世界制覇)だろう。


私が今、感じる恐怖は、ウイルス感染症による病死ではなくなった。
私が今、感じる恐怖は「成立したこと」による大衆の情報感染による脳死である。


「withコロナという新しい日常」は完全に成立した。
しかし、そのきっかけとなった「感染症としての新型コロナウイルス」は成立しているのだろうか?
「SARS-CoV-2」と命名され、遺伝子情報が登録されたのだから成立したのだろう。
それでは「新型コロナウイルス感染症」は感染病として科学的に成立しているのだろうか?




4.July 2020- 12:00



ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は回っている」と言ったとされる、あの頃はこういった日常だっただろうか。
第二次世界大戦の前夜はこういう日常だっただろうか。




July 13, 2020 橋本公成


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1. 徳島大学名誉教授、免疫生物学専門の大橋眞(まこと)医学博士によるYouTubeブログ/ 学びラウンジ 2020/06/04「コロナの新型とは何か コロナ騒動の真相に迫る」より
https://www.youtube.com/watch?v=pMPO1Nhrey8&fbclid=IwAR2JlZcwBsHnwJdMO5x-Cc3dskHBPTyK7KmmekbA3u8PZP4qBgtYXXCdc0o



【オンライン授業の成立】ということ 200330



身近なところではオンライン授業が従来の通信教育と同じような<方法>としてのところでのみ議論されているような気がして懸念するのですが、
もしそうであるなら、そもそも専門設備を利用することができる環境としての「箱」はいらないし、
というより<大学>という機関を成立させている古代ギリシャ以来の「アカデミア」という概念が崩壊する。

橋本 公成
2020年3月30日

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“..now that the precedent has been set, on-line education could become the norm, not the exception. Or, that in-person versus online could eventually become the difference between private and public education, which would only serve to exacerbate the wealth and access-to-culture gap between the haves and the have-nots,”
「..今や先例が決まったので、オンライン教育は例外ではなく標準になる可能性があります。または、その対面対オンラインが最終的に私立と公立の教育の違いになる可能性があり、それは富と文化へのアクセスへのアクセスを持っている人と持っていない人の間のギャップを悪化させるだけです」
Art Students Demand University Accountability and Reimbursements During Pandemic
Students at some of the most renowned art universities in the country, including the Rhode Island School of Design, Yale, and NYU Tisch, are sounding alarm bells about their schools’ handling of the COVID-19 crisis.

Valentina Di Liscia  March 27, 2020 

https://hyperallergic.com/549734/art-students-covid-19/?fbclid=IwAR04KHcmxTpACIUMREupP68qTQlZwH4mIKHjr9E_8NZO5Kpvf0AnSVZtBKQ





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追記1  July 6, 2020  (on facebook) -----------

この映像は、「科学のある世界」と「科学のない世界」に分断された今の日本で、現実を見手分析するという科学の基本に立った数少ないまともな会見だと思ったのです。
前半の現状説明はデモクラシータイムズの配信がまとまった形で示されていて、これだけみるだけでわかりやすいです。最後の方の児玉龍彦先生の力強い訴え、大学封鎖批判と倫理に対する姿勢は必聴だと思ったのです。

https://www.youtube.com/watch?v=8qW7rkFsvvM&fbclid=IwAR0NzyXKurzUi9cBlYA7XZXcX50YkM14e30g2f2hPAZ32WgkhKc8rVmDo5w

しかし、その後の国会での悲壮感あふれる答弁を聞き、この先生も多くのことを背負わされているのかな、科学と異なる何かに従ってるようで残念な気分になりましたね。。



追記2 July 13, 2020 ----------

半年後に振り返ってみれば。
メディアによる中国武漢のおぞましいパンデミック映像から始まり、日本でのクルーズ船に人々の目が釘付けになっている中、準備は着々と進んでいた。
かく言うう私も、呼吸器系に疾患を抱えているので、迫りくる死に日々恐怖が増大し家に引きこもっていた。もともとが自宅での個人事業だから引きこもり生活はそれほど新たな習慣ではなかったが、公共交通機関には一切乗っていない。外出はもっぱら原付バイクであった。
世界規模で、すべての人が参加するコロナ禍という大イベントにとって、オリンピックなど小さな出来事にすぎない。しかし象徴性があるので、それも利用しなくてはならないとでもいうように「開催は無理だろ」「いやそんなことになれば大きな経済損失に」など、にわか評論家の大衆意見がメディアでにぎやかに展開され、それを見る大衆もまた、気分が誘導された。そんな中でも準備は粛々と整ってオリンピック延期が発表されるや否や「withコロナという新しい生活」「新しい日常」が成立した。
それはあまりにもスムーズに進行するので、あらかじめ準備されたシナリオどおりの出来事のように感じていた。感染症は方便で、一向に進まぬデジタル産業革命の最終段階の仕上げ、デジタル生活に完全移行する強硬突破のように感じたのも事実である。しかし一方で、世界的な人とモノの移動による文明の方向が、グローバル化の方向を強制終了し、大きく舵を切った転換の時代に立ち会っていると、ある意味ワクワクもしていたのも事実である。
時代の大きな転換に立ち会っていると思ったことは、物事が「成立する」とはどういうことかということを現実に自身の身をもって実体験することなのである。
「成立する」とは、それはひとたび成立してしまうと、正しさ、正しくなさは不問にされ、流れと逆の方向に行こうとするものを排除する世界である。そんな考えを持つものは権力者によって抹殺されるのではなく、大衆によって殺されるのかもしれない。私が今、感じる恐怖は感染症による死ではなく、「成立したこと」による脳死である。
第二次世界大戦の前夜もこういう日常だっただろうか。

<別稿へ続く>








2020年7月3日金曜日

版下絵画とコピー機による多色版画



世界的に知られる北斎の「神奈川沖浪裏」図。これは版画なので、北斎の原画は存在しない。
あたりまえのことであるが北斎の肉筆画ではなく、北斎の版下指示による印刷物である。
和紙に描かれた原画は裏返され直接、骨版の版木に糊付けされ、彫師は原画ともども彫刻刀で彫り、不要部分は版木の屑として捨てられる。
それでは骨版のない部分輪郭線のない部分は多色刷り版画としてどのように合体させたのだろうか?と考えると、原画には薄墨で波の陰影や空の雲が描かれていたと想像できる。
骨描き部分と色面部分の二種の原画=版下が北斎自身によって紙に描き起したのか、あるいは、彫師が原画から、まず版木に原画を貼る前に骨版だけトレースしたのか?はわからない。
原画は色分けされた彩色画であったかどうかはわからないが、廃棄されてしまう原画に丁寧にタブローのごとく彩色したとは思われない。
墨によるモノクロの原画とともに、片ぼかしの領域や方向の注釈指示や色指示をした版下と考えるのが妥当だろう。

アドビ・イラストレータ―が登場し、デジタル版下が当たり前の今、少し前の紙による版下を経験してきた者は以上のように北斎の版画について考える。
























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富嶽三十六景
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B6%BD%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%99%AF




富嶽三十六景 神奈川沖浪裏 
By After Katsushika Hokusai - Own work, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2646210





2020年7月1日水曜日

200616作品菊三題

"200616菊00-ヨーカドーピアゴ" Kiminari Hashimoto 

"200616菊00-ヨーカドー" Kiminari Hashimoto 

"200616菊00-ピアゴ" Kiminari Hashimoto 

2020年5月31日日曜日

議事録の不存在について

コロナ禍で検証委員会が議論した議事録は残していない、存在しないというニュースが国会で問題になった。
議事録を残さないというこのニュースを聞いた時、80年代のバブル期に企業の開発会議で推奨されていたブレスト(ブレイン・ストーミング)を思い出した。
誰が何を言ったかではなく、その場での発言が間違いか、滑稽か、途方もない馬鹿げた常識外れかとかいった同調圧力から解き放たれてアイデアそれ自体の発現を求めての共同脳による嵐といったものだ。
議論その場では、発言者に責任は無く共同脳による、個にしてみれば無責任が、個では得ることができない集合知、経験から未知の最適解を導き出すということが目指されるというものだ。
未験の禍を前にして、個の、発言者の利権や責任を離れ議論されるという考えは、個の価値観や一部の特許、所有権などよりも、人類に降りかかった禍に「類」として立ち向かうと考えれば、すばらしいことである。そもそも自然科学の出来事において著作権など存在しない。
しかし、一方で記録を残さない国事行為というものがどういうことかとも考えてみると、同様の問題が起こった時、過去の検証が活かされず、なにより歴史に空欄を作ることではないのかと。
後の世で、禍が過ぎ去って歴史が再び動き出した時、記紀のように後世の他者によって都合よく書き出される、ある方向を持った物語としての歴史が捏造されるのではないかと。記録を残さなかったことがかえって、幾つもの不確かな伝承や陰謀論を生むのではないのかと。

ところで一方、文字お越しされること、言葉として記されることについても考えてみる。
仏典や聖書、古代ギリシャの哲学書。話し言葉で説かれた仏陀やキリスト、ソクラテスの言葉が、文字お越しされ残されること。そのことは紛れもなく文字というものの遅延をあらわにしている。言葉は発せられたとたん消えてゆく。聞いた人(その場の観客)は言葉それ自体から瞬時に「聞いた人」自身の経験より導き出される「意味」を抽出して大脳皮質に保存する。大脳皮質に保存された言葉は遺伝子の複製のように一字一句コピーされるのではなくエラーも同時に保存され、そんなことが何代もの世代で繰り返される。しかしエラーは絶えず修正されもする。


another story

「イメージ人」はイメージに騙される。
「言葉人」は言葉に騙される。
「知識人」は知識に騙される。
「経験人」は経験に騙される。

「騙される」主語は何か?
一代限りの大脳皮質である。
習慣が大脳皮質を更新し、更新された大脳皮質が習慣を補完する。
習慣というものが大脳皮質によるものであり大脳皮質によって騙されるのならば、良くない習慣と気づいた時は逆に大脳皮質を騙す行動に転じるのだ。大脳を逆にだますことによってよくない習慣は変えられる。か?








【制作と免疫】


作品の制作というものが何らかの外部からのインプット(情報、異物)による具体的行動、リアクションとして考えるならば、外部からのインプットはウイルスのようなものであり、リアクションは免疫作用と置き換えてみることもできる。
そう考えると制作を生業とするものが心掛けなければならないことは、普段から外部からの異物に備え、免疫システム作用を正常に働かせるための日常生活であり、ウイルスは制作にとっても必要不可欠なモノであると考えることができる。



それでは、ワクチンとは何に置き換えることができるか?

それはデザインと言えるかもしれない。



2020年5月31日

2020年5月28日木曜日

SNSとソーシャル・ディスタンシング

SNSは直接脳に働きかけるのでヒトーヒト間の距離や遠近を狂わせる。

ソーシャル・ディスタンシングはフィジカルな他者との距離を同調圧で強制するが、かえってSNSを補強しヒトーヒト間の距離を狂わせている。

2020年5月8日金曜日

2020/05/08 禍の中で何日君再来で目を覚まし、多焦点に脳内言葉がしゃべり始め収集着かない事になるいつもの暮らし


4時前に起きてからヤフーニュースで月の画像を見つける。
最近は満月に何でも○○ムーンと名を付けることが一体どいうことかと考えながら、その画像説明に大阪市東住吉区のマンション3階から生駒山に上る月という文を見つけ、80年代、実家に帰省時、弟と「マンション登り」をしたことを思い出した。
あちこちのマンションの非常階段を上って最上階からの眺望を楽しむ。チンチン電車の軌道が高速道路の高架と地下鉄に替わり、古くからの住宅街にニョキニョキ、中層マンションが増えだした頃のこと。

大阪の夜空に浮かぶ「フラワームーン」5/7(木) 19:19配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200507-00010007-wordleaf-soci

「ステイホーム」「不要不急の外出は控えるよう」「県をまたいだ外出は行わないよう」という言葉が飛び交う中、実家の近くからの月の画像を見て、弟との40年近く前の記憶と同時にコロナ禍で一人籠っている母のことを思い

「家族の分断」とつぶやいてみる。

この今の状況が家族という最小の社会単位まで分断している。
しかし、と、もう一度「家族の分断」とつぶやいてみる。はたして、この分断は今に始まったことだろうか、と。

外出していなかった間に、(と言っても元々自宅で自営業の私は外出をほとんどしないのであるが)近所の山、雑木林が亡くなってるのを見て唖然とする。この近所は日本の平均的な流れと逆行して人口が増加していて、どんどん山を崩して宅地造成しているし、数年前にできた巨大ショッピングセンターがあるのに、数キロ離れていないところでは田んぼを壊して、新たに巨大ショッピングセンターが建設中である。少子化、都市の空洞化、経済の低迷の中で、建築土木という単価の高いものを売ることだけがあいかわらず当たり前のように進む状況は普通に見ていれば何をやってるのか?!とも思ってしまうだろう。それでも資源のない小さな島国が生きてゆくには、この国ではスクラップアンドビルドが持続可能な経済政策しかないと別の脳が話す。
庶民にとって単価の高いお買い物は不動産、家であるから、税金も物件/単価を考えればそうなのだろう。かくいう自分も企業で企画開発の責任の任をまかされていた時は、売上を上げるため単価の高い商品を企画することが手っ取り早いと考えたものだ。しかし、少子化なのである。核家族なのである。この流れは高度成長期にさかのぼる。地縁血縁から会社縁へと言われていた時代、すでに家族の分断が始まっていたのである。それ以前の二、三世代が同居していた大きな家を解体し、小さな家をいくつも作った方がいいこととは?

だけど、高齢化社会になって、老老介護の時代になって、認知症が社会問題になってる時に、いいことは何世代も同居する大きな家なのである。社会の最低インフラも危機を迎えるように思える現在、政府もさすがにヤバいと感じだしたか、病院や施設で老年期を迎えるより自宅で過ごすように言い出した。。なんてことだ!
大きな家だと個人の自由より、家族という社会的ルールが増えるじゃないか!と、若者は叫ぶ?
しかし、自由って何?

年老いた家族が心配になって県をまたいで移動することは「不要不急」ではない?
「私の人生は不要不急か」と養老孟子先生がつぶやく。
おばさんが、やさしげに日本語英語言葉で「ステイホーム」と言っても、英語の「stay home」は命令形なのだ。多言語をまたぎ翻訳による意味の変容はウイルスがRNAを複製する時に起こるエラーに似てどんどん免疫が効かない新型として再生産される。



満月の夜は眠くなる。前日8時半に寝てしまった僕は、つけっ放しのラジオ深夜便から流れる鄧麗君の「何日君再来」で4時前に目を覚ます。

「昼は老鄧のいうことを聞き、夜は小鄧を聴く」

(老鄧は鄧小平のことであり、小鄧とは鄧麗君:テレサ・テンのことである。名前の前に小をつけるのは○○ちゃんというような愛称。)
この曲は中国民主化の象徴的な曲として共産党政府から何度も禁止されたという物語を持つ。禁止されていた本土の民はこの歌詞を単純に男女の愛の歌と聞いていただろうか?

時の流れに身をまかせ
あなたの色に染められ
一度の人生それさえ 捨てることもかまわない
(作詞:荒木とよひさ)

そうか、今日は鄧麗君の命日なのだ。




6時のラジオはアメリカの高級百貨店ニーマン・マーカスの経営破綻を伝える。
新型コロナ禍のロックダウンで企業の倒産ニュースが流れる中の出来事。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200508/k10012421401000.html

百貨店という業態は、インターネット時代に即していないため、どこも経営が苦しく日本でもM&Aにより乗り越えようとしたり、新たなサービスに向けて動いている。ニーマン・マーカスもコロナ禍以前から経営が行き詰っていたから、コロナ禍の外出規制が響いた、引き金になったということらしい。つまり、コロナ禍関連倒産と言ってもよく、その意味では新型コロナで亡くなった人が、高齢者や持病を抱えている人が亡くなっていることと似ている。高齢者=寿命、老衰と考えるとコロナが引き金になっただろうが、それはインフルエンザでも同じことなのだ。感染により老衰による身体機能の低下が加速されたのだ。企業に置き換えれば、100年続いた寿命が尽きたといってもいい。持病を抱えている、基礎疾患がある人、企業に置き換えれば時代の変化に対応できず何らかの組織的問題があったと考えることもできる。


そして、、、
異例の速さでレムデシビルが承認された。というニュース
これは新型コロナの治療薬なの?
エボラウイルスに効果があまりなかったと言われ、副作用など問題ありとされるこの薬が、、政府は重篤患者に限定され、患者の費用負担はなしとされる。が、この在庫を抱えるのは日本なのであるのだから、その費用は税金で賄われる?タミフルや子宮頸がんワクチン、そしてオスプレイのことが頭に浮かぶ。
そして今年の春の受勲。ビルゲイツ氏が天皇様より勲章を授けられる。




三日ぶりにマンションの鉄の扉を開けて外に出る。と、同時に口をついて出た言葉

「パパ、これが世界の終わり?」

家族を救おうと7年間、家に閉じ込めたドミニコ。解放された息子が走り出し、そして見た光景は?タルコフスキーの映画「ノスタルジア」の一場面。父に並んで座った子が父に目を向けてつぶやく。






2020年3月21日土曜日

AI による自動検閲 から考える「コミュニティ規定」


Facebookであなたの投稿の表示が再開されました
2020年3月18日水曜日 12:05
ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。 あなたの投稿を再度審査した結果、Facebookのコミュニティ規定に従っていることが確認されました。
=================

この投稿は、スパムに関するFacebookコミュニティ規定に違反しています
終了済み
アクティビティ

あなたの投稿について
2020年3月18日水曜日 11:12
この投稿は他の人には表示されません。

「シュレディンガーの猫」は箱を空けるまで生きているか、死んでいるかわからない。未観測の段階で「猫」は生きてもいるし、死んでもいる。武漢由来ウイルスの感染者の数字は、検査数が少ない地域、検査自体行われていない地域を考えると「シュレディンガーの猫」のようである。たとえ陰性の検査結果であってもウイルスがヒト個体内に「無い」というわけではなく、設定された陰性基準の数値検出ができないレベルであり、ウイルスがあれば生き続けるという。WHOのパンデミック声明ーヒト個体のアクチャルな移動の制限(グローバリズムの強制終了、派生する大戦前の世界大恐慌へのリアルな予感)のなか、ウイルスと情報はグローバルに越境し続ける。

決定への反対が表明されました
2020年3月18日水曜日 12:05
ご協力ありがとうございました。この情報は今後の決定の改善に役立てさせていただきます。

Facebookであなたの投稿の表示が再開されました
2020年3月18日水曜日 12:05
ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。 あなたの投稿を再度審査した結果、Facebookのコミュニティ規定に従っていることが確認されました。

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この投稿は、スパムに関するFacebookコミュニティ規定に違反しています
終了済み
アクティビティ

あなたの投稿について
2020年3月18日水曜日 11:12
この投稿は他の人には表示されません。

Mapping the Coronavirus Outbreak Across the World
What you need to know about the new respiratory virus spreading in China and around the world.

https://www.bloomberg.com/graphics/2020-wuhan-novel-coronavirus-outbreak/

決定への反対が表明されました
2020年3月19日木曜日 0:35
ご協力ありがとうございました。この情報は今後の決定の改善に役立てさせていただきます。

Facebookであなたの投稿の表示が再開されました
2020年3月19日木曜日 0:35
ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。 あなたの投稿を再度審査した結果、Facebookのコミュニティ規定に従っていることが確認されました。
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HUFFINGTONPOST.JP
2020年03月18日 17時50分 JST | 更新 2020年03月18日 17時52分 JST
Facebook、新型コロナ関連などの投稿を次々とブロック。原因は「システムの不具合」とTwitterで説明
この数日の出来事は、Facebookによると手違いだったと他のネット情報でも報じられていたことを後に知るのだけれど、しかし、それでもこの通知が来たときには、私はまじめにSNSの投稿について、<コミュニティ違反>について改めて考えていた。スパム扱いになったコミュニティ違反はどの部分だろうかと。
引用したブルームバーグの情報だろうか?この記事の当時、ブルームバーグはPCR検査があまりにも少ないという理由で世界全体の統計表から日本の統計を表示しないという決定をしていた。しかし、他の人のページでは問題なく表示されているから、それは違うだろう。すると、引用情報そのものでなく、引用と一緒に記した私のテキストであるのだろうか?その内容、PCR検査が意味をなさないことを揶揄してるように解釈されたからだろうか?いやいや、もっとも引っ掛かるところは私のテキスト中で記した<武漢由来ウイルス>という言葉ではないか。と、そう考えたのである。
<武漢由来ウイルス>(新型コロナウイルス)は疫学上、SEARS-CoV-2 というのがウイルスの正式名称である。それをあえて武漢由来とするのはコミュニティーを誤った方向に目を向けさすことになるのか?という問題である。「スペイン風邪」のようにスペインから始まった流行を錯覚させる名称のように。「スペイン風邪」は第一次世界大戦中に流行したという。当時中立国であったスペインのみ風邪の流行を公表していたため「スペイン風邪」という名で呼ばれるが、戦時下で情報統制のあったスペイン以外の國から流行が始まりとされている。よってスペインが流行の発祥地ではない。
それでは今回の<武漢由来ウイルス>(武漢風邪)はどうか?
私たちはすべての一次情報にふれることができない。故に自身の判断で複数のメディアを参照しつつ今起こっていることを判断し自身の決定で行動する。



2020年3月12日木曜日

感染 (in progress)

だれかのことばより
「記憶は保持されているというのは幻想である。
記憶は、あることを思い出した時点で、たった今、作り直されている。
鮮やかな記憶とは、繰り返し繰り返し呼び出し強化している自己愛的回路の変形といえる。」

有名なシュレディンガー博士の論、「シュレディンガーの猫」は箱を空けるまで生きているか、死んでいるかわからない。未観測の段階で「猫」は生きてもいるし、死んでもいる。私は、記憶もまたシュレディンガー博士の実験装置のようなものだと思っている。

「人は記憶の中で生きながらえる。」という時、その人Aは記憶する人Bによって生かされている。記憶する人Bがいるから、その人Aは生き続けているのである。

現代の人間社会では訃報というシステムがある。
訃報を受け取って初めて、その人物が少し前までは生きており、しかし少し前には亡くなったことを知るのである。訃報によってはじめて生か死かはっきりする。
訃報を受け取っていない状態では「シュレディンガーの猫」である。
そしてこの訃報というシステムが発動されるのはいつも突然であるのだが、突然と思うのは、何年も交流がなく、あるいは遠い場所に離れて住んでいて年賀状くらいしか互いの交流がないゆえである。生活を共にする当事者でないからである。
例えば自分の父親についてはどうだろう。私は普段の仕事や諸事に追われている時、父のことを絶えず考えているわけではない。その時、意識に上らない父は生きているか死んでいるかそれさえも問われない。しかし、ひとたび意識すると、その時点で即はっきりするのである。父の肉体はすでに死んでいると。それは、死に立ち会った事実とその経験からである。

しかし私は、遠いむかし遊んだ友人Yのことはすっかり忘れている。名前を聞いても昔の写真を見てもそれが誰だかわからない。私の記憶にも昇らないこの友人Yは記憶に上っていない状態の時、生きてもいるが、死んでもいる。しかし現実では友人Yは生きているか、死んでいるかはっきりしている。そして、もし友人Yが一方的に私のことをことあるごとに思い出していればYの中で私は生き続けている。

現代のようにインターネットができ、SNSというものが盛んに利用されるようになる前、生前の人の別れも一生の別れであった。もしあなたが、その別れた人のことを思い出さない時、その人はシュレディンガーの猫である。スマホやSNSというものがない時代にはアクチャルに探そうと行動しなければ、別離した人は生きているか死んでいるかもわからないのである。



武漢由来ウイルスの感染者の数字は、検査数が少ない地域、検査自体行われていない地域を考えると「シュレディンガーの猫」のようである。しかし厄介なのは、たとえ陰性の検査結果であってもウイルスがヒト個体内に「無い」というわけではなく、設定された陰性基準の数値検出ができないレベルであり、ウイルスがあれば生き続けるということである。
しかし、そもそも武田先生が指摘するように(1) 世界史上で記される歴史的な大流行がおこった疫病、感染病でさえ、感染者数は把握できていない。感染者数を把握するなど不可能なのだ。




昭和38年

幼稚園を休んだSくんの家にともだちとお見舞いと称して遊びに行った。
木戸越しに頬っぺたをタオルでつったSくんが出てきて、

「おたふくにかかったから遊べない」といった。

その後、少ししてぼくはぐったりした。おたふく風邪がうつったのだ。
往診に来た医者がおたふくかぜと診断すると祖母の勧めで母は布団を敷き、ぼくと弟を並んで寝かせた。弟におたふく風邪をうつすために。

弟はめでたくおたふく風邪に感染した。

その後、気になった僕はこの時の感染がおたふく風邪だったか、ハシカだったか確かめるために母に電話して聞いてみた。母の記憶もあいまいで、しかし母は僕と異なる記憶を、その頃の様子を詳細に話してくれた。
とにかく僕が映像的に記憶してるのは、S君の家の木戸越しの情景、大きな仏壇のある部屋で弟と並んで寝かされたこと、往診に来た医者のことであり。
そして、もう一つの病床の記憶は二階に一人寝かされていた情景である。その時の記憶は二階の窓からすぐ近くに見えたセンダイの松の木に色鮮やかな黄色く平べったい蛇のようなものがいて、気持ち悪さと同時にその情景が鮮明に思い出されることだ。



昭和40年




クルーズ船で感染が広まり、病院への隔離のニュースがにぎやかに報道されだしてすぐ、小学校2年の頃の羽曳野病院のことが脳内に映像された。

その場所がサナトリウムと知ったのは成人してずいぶん経った頃だ。サナトリウムという言葉すら中島みゆきの歌を聞くまでは知らなかったのだから。実際そこはサナトリウムと明記されていたわけでなく結核療養所となったいた。宮崎駿監督のアニメにはサナトリウムが頻繁に登場する。それを見て初めてあの時の赤い屋根の棟がいくつも並んだ官舎のような建物がその施設と初めて理解したのだった。
その地は聖徳太子の弟、来目皇子の墓と伝わる方墳があり、中の太子と言われる野中寺から近かったりと太子ゆかりのある地で、その病院の西には悲田院という名のついた施設が広がっていて四天王寺学園大学につながっていた。悲田院とは聖徳太子が四天王寺に設置した四箇院の一つであるとされている。

四箇院とはwikiによれば
伝承によれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つである。敬田院は寺院そのものであり、
施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局・病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。

四天王寺は四箇院が示すように、現代で言えば総合医療福祉センターのような福祉施設である。
その四天王寺が令和2年5月2日、創建以来初めてすべての門の出入り口を閉鎖する。ウイルス感染拡大防止の対策として。




天平の疫病大流行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B9%B3%E3%81%AE%E7%96%AB%E7%97%85%E5%A4%A7%E6%B5%81%E8%A1%8C

天平の疫病大流行は、735年から737年にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとされている。天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。天然痘の流行は738年1月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。
背景
日本の中央政府は、8世紀初頭までに中国にならった疫病のモニタリング制度を導入しており、国内で疫病が発生した際には朝廷への報告が常に行われるよう公式令で定めていた。
この制度の存在により、735–737年に発生した疫病の際にも詳細な記録が残されることとなった。それらの記録は『続日本紀』他の史料に残されており、流行した疫病が天然痘であったことを伝えている。

余波
東大寺大仏殿。盧舎那仏像(奈良の大仏)は天平の疫病大流行の後、聖武天皇の命によって建立された。政権を担っていた藤原四兄弟が相次いで病死した後、彼らの政敵であった橘諸兄が代わって国政を執り仕切るようになった。天然痘の終息から数年後には、農業生産性を高めるため、農民に土地の私有を認める「墾田永年私財法」が施行されたが、これは疫病によるダメージからの回復を目指す社会復興策としての一面が強かった。
当時、災害や疫病などの異変は為政者の資質によって引き起こされると見なす風潮があり、天然痘の流行に個人的な責任を感じた聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺および盧舎那仏像(奈良の大仏)の建造を命じたほか、日本各地に国分寺を建立させた。
盧舎那仏像を鋳造する費用だけでも、国の財政を破綻させかねないほど巨額であったと言われている。




<つづく>

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(1)  2020/5/15虎ノ門ニュース (14:09あたりから中部大学武田邦彦教授の感染者数についての説明)表示は放送後2週間なので、すでに非表示になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=jxWrq8FvAlo&t=7273s