2021年12月22日水曜日

211222 スキー場での視界

 

体験者と観察者の視界

体験者=観察者の視界



2021/12/22 note


 理屈的に言って30度の傾斜は90度垂直に比すればゆるいものだ。
 しかし、体験者=観察者の場合、それは垂直に飛び込むような視界に変わる。








日本の女子ゴルファーが海外メジャーで強く活躍する選手に共通してることは身長150㎝少々で、足が長いとは言えない体形。このことによって球をとらえる視界から考えれるのではという仮説を立ててみた。



2021/8/22 note



 スキー場での視界は、このこととの関連で考察。






そしてこの2年、現実の切り取られた情報による「恐怖心」についての社会状況にも共通していると思える。




2021年12月1日水曜日

「古い3D」と「新しい3D」(その2)

 

8年前の投稿をfacebookが知らせてきた。
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https://www.facebook.com/kiminari.hashimoto/posts/566359226776687
橋本 公成  2013年12月1日投稿 プライバシー設定: あなたの友達
片目で見るとリアルなダイオラマ。20年間放置していた両眼視について、思考を再開しよう。
西山 禎泰, 杉山 健司, 加藤 令吉, 高橋 和生, 大平 隆文, 鈴木敏春, 松本 知子

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https://www.facebook.com/masakimuseum/photos/a.133393193499771/213260528846370/
正木美術館 2013年10月29日投稿 公開  

「カリフォルニア コンドル」と杉本博司氏、鈴木芳雄氏。

物黒無の名付け親・杉本博司氏が、展覧会「物 黒 無―モノクローム」をみに来てくださいました!

展示室の杉本作品と杉本コレクションも、生みの親の訪問に、少々緊張しているかのよう…。

11月5日(火)の東京レクチャー 
http://masaki-art-museum.jp/20131018_masaki.pdf 
で、モデレーターをつとめていただく鈴木芳雄氏も、時間をあわせ、来てくださいました。
みなさま、外苑キャンパスでおめにかかれますよう! 
コメント10件
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>高橋 和生(8年前)
心理学ですか。少しかじろうと、図書館で借りて・・・・無理でした。騙し絵の方が楽しいです。(^◇^)

>橋本 公成(8年前)
この画像の掛け軸は現代美術家の杉本博司氏の写真作品です。アメリカ自然史博物館のダイオラマを写したものです。
20数年前、映像の歴史に興味を持っていた私はダイオラマと2つのCCDカメラ、そのライブカメラから取り込んだ観客の映像を出力する2つのブラウン管を遠近法的にダイオラマに合成する装置を発表しました。
その装置は両眼視についての思考以外のほかに多くの要素を含んでいたため、その後の私の作品は複数の興味に分散し両眼視については放置され忘れていたのですが、先日この作品を評価してくれていた人から両眼視についてあらためて気付かされたのでした。
そんな時に今朝、日曜美術館の展覧会紹介のコーナーで正木美術館で開催中の展示で杉本博司氏のこの作品説明でダイオラマと両眼視、単眼視(カメラによる視覚)のことに触れられ忘れそうになっていたことを又、思い出したのです。

>橋本 公成(8年前)

杉本博司氏のwiki、下記にダイオラマに関する部分抜粋  

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%9C%AC%E5%8D%9A%E5%8F%B8?fbclid=IwAR3bxp3T_c6G0ua2SxiZLoAo3cWjp9sEK0GmF5DRBlK17JucvBq59nTd8iA

..最初のシリーズの『ジオラマ』では、ニューヨークのアメリカ自然史博物館の古生物や古代人を再現したジオラマを撮った。
片目を閉じた「カメラの視覚」のもとでは、両目で見ると模型だと分かるジオラマが遠近感の喪失によりリアルに見える、という発見からこのシリーズは始まっている。
精巧なジオラマを本物に見えるよう注意深く撮ったシリーズは、「写真はいつでも真実を写す」と考えている観客には一瞬本物の動物や古代人を撮ったように見えてしまう。..



>高橋 和生(8年前)
現実化してみせるには、遠近法。これは私の世界でも。両眼視は、遠近感の為に必要ではあるが、片方の眼だけでかえってジオラマを現実化してみせられるということ。
で、いいのかなあー?
さすれば、他の遠近法を使っていみているのでしょうが、ハテサテ?E.T.ホールの本をよみかえします。

>橋本 公成(8年前)
E.T.ホールの何ていう本ですか?

>橋本 公成(8年前)
エドワードホールの「かくれた次元」でしょうか?昔、本棚にあったような。。

>橋本 公成(8年前)
産業革命とともに始まる人間の大移動、大観光時代と写真、イメージ、視覚について書かれた伊藤俊治著「ジオラマ論」があります。


>橋本 公成(8年前)
20年前から放置された装置です。









>杉山 健司(8年前)
凄く面白そうな話!今度会ったら、このことについて話をぜひ!

>橋本 公成(8年前)
>杉山さん まだ、直感的に思いついたことを試している段階です。何らかの成果に結実するのか?

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「古い3D」と「新しい3D」(その1) 2021年11月7日日曜日
https://pavlovsdogxschrodingerscat.blogspot.com/2021/11/dd.html


2021年11月18日木曜日

211116 四十数年ぶりに源氏物語絵巻を見に行く。


 


学生の頃、石川県立美術館で見て以来、四十数年ぶりに源氏物語絵巻を見に行く。

前回見たときはどのような展示だったか記憶が薄れて思い出せないが、その時買った「第四十帖 御法」の印刷図版がずっと額に入って手元にある。当時は昭和7年に額面装になってからの展示だったようだが、装丁板に引っ張られて痛みがひどいことから巻子装に戻されたとのことで、早々に見に行く。







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「修復完了記念 館蔵全巻特別公開 国宝 源氏物語絵巻」

2021.11.13 (土) ~ 2021.12.12 (日)

徳川美術館所蔵の国宝「源氏物語絵巻」は、『源氏物語』を絵画化した現存最古の物語絵巻で、平安の王朝文化を象徴する名画のひとつとして世界的にも有名です。

もとは3巻の巻子装でしたが、保存と公開の観点から昭和7年(1932)に額面装に改められました。

当時としては最善の判断でしたが、80余年を経て額面装による弊害が生じたため、平成28年(2016)から5年にわたる保存修復を行い、

詞(ことば)と絵が響き合うよう本来の巻子装に戻しました。

令和2年(2020)に全15巻の修復が完成したことを記念し、前後期で展示替を行いながら、全巻を特別公開いたします。


■「国宝 源氏物語絵巻」の展示スケジュール

前期(11/13~11/30):蓬生/柏木一/柏木三/竹河一/橋姫/早蕨/宿木二/東屋二

後期(12/1~12/12):関屋・絵合/柏木二/横笛/竹河二/宿木一/宿木三/東屋一


徳川美術館所蔵の国宝「源氏物語絵巻」各帖の詳しい内容はこちらをご覧ください。

国宝 源氏物語絵巻の世界へようこそ(徳川美術館)

https://my.ebook5.net/tokugawa/genji/


展示作品リスト

https://www.tokugawa-art-museum.jp/exhibits/planned/items/Genji%20special%20unveiling.pdf






2021年11月14日日曜日

211114 カンムリカイツブリ @ 愛知池




十日ほど前、飛来した冬鳥のホシハジロ、オオバンに混じってカンムリカイツブリらしき影が見えたのでバカチョン持ち出しshooting。



カンムリカイツブリ冬羽。警戒心強くかなり離れた距離。すぐに潜って移動する。


カンムリより一回り小さいカイツブリを拡大するとアカエリカイツブリらしきものが。

しかしこれは勘違い。アカエリは淡水池にはこないし、写真を撮った時の感覚を思い出したら大きさがまずカンムリよりかなりかなり小さいことから、その時も普通のカイツブリと思ったはず。


それにしても普通のバンがいなくてオオバンばかり増えている。

ホシハジロいるところオオバンあり、一緒に移動してるごとく。
それにしても大きな弁足。
足の指がグローブのように広がって葉っぱのような水かきはカイツブリにもみられる特徴。
— 場所: 愛知用水 愛知池




定住者のカルガモは移民のホシハジロを追い回し威嚇する。
ように見える。











2021年11月7日日曜日

「古い3D」と「新しい3D」(その1)



この深田さんの番組、本題のことは置いておいて、話の中に登場する「古い3D」と「新しい3D」の技術的なさわりが分かりやすいです。

https://www.youtube.com/watch?v=MKi_aUQWYZ4


ここで語られているホログラム、3Dは、つまりはディスプレイ技術。
古い技術=両眼視差によるホログラムディスプレイ
新しい技術=ディスプレイをのぞき込む人の視点を検知して内部サブジェクトが追尾対応変化する多視点型ディスプレイ
SONYによる多視点型ディスプレイはセンサーとディスプレイをインテグレイトする3Dディスプレイ技術で、イメージセンサーチップの上にメモリを積層するという新技術を確立。センサーで映像を取り込みながら、そのセンサーの裏にメモリがくっついてるので短期記憶保持などにより、オーディエンスの目の位置(視線)が映像のどこを見ているかが変わっていくのを感知し、見せる映像の角度をちょっとずつ変えてゆく。多視点型ディスプレイが一枚のフラットパネルで実現できるというもの。
この、オーディエンスの視点をセンサーで追尾し、オーディエンスが見ている映像に影響を与えるという技術は、第2回名古屋ビエンナーレ、アーテック91で発表された、  さんの作品にありましたね。



Electric Heart Mother  Version03 (1992) のこと

僕も2台のライブカメラ(SONY Hi-8) と2台のブラウン管 (SHARP 14inchTV) を動かして現実空間に両眼視のホログラム風イメージを合成した大雑把なモデル化を作ってみたけど、30年間放置してる間に、どうしようもない粗大ゴミ化していて何とかしなければと焦る。



ふくいビデオビエンナーレでの展示 (1992)




そもそもこの作品を作ったきっかけは、「絵画の遠近法」「絵画の奥行き」についてというフォーマルなテーマから発展したものだった。そのため、この立体的な構造物は「その大きさが遠近法の影響を受ける大きさでなければならない」というのが始めの取り決めの一つであり、その内部にやはり奥行き(遠近法の消失点に向かう先細りの台形を底面に持つ画箱としてのダイオラマ)が作られた。「内部空間を持つ彫刻」ということも一方でのテーマであって、「絵画(2次元)と彫刻(3次元)両方の次元がオーディエンスの視線上で交差する映像装置でもある。」
<実際のダイオラマを実見するよりも、それがカメラで写真になった時により奥行きを持った深い空間を提示する。>ということを示したのは杉本博司氏のデビュー作?ニューヨーク自然史博物館のジオラマ装置を写した写真作品だったが、




another story
<30年間放置してる間に、どうしようもない粗大ゴミ化していて何とかしなければと焦る。>からの  another story 
 日常の生活スペース以上の大きな作品の場合、発表空間の大きさに合わせて分割して作るため会場での設営時にしか改良や銀杏性ができないという欠点がある。普段の制作スペースがそれ以下である場合、毎朝起きて作品に対峙して問題点を少しづつ調整してゆくといった制作方法に至らない。パーツごとの部品は別々に梱包されたりしていて、ましてや電気の来ていない倉庫にあっては実験さえできない。まあこういうことは作家の言い訳にしかすぎず身から出た錆で、泣き言言うな!と天から叱られるが、組み込んだ機材さえもが前世紀の仕様からアップデートしていないとその部分でも機能させるのが困難なゴミになってしまう。こういったことは制作初めのころにもすでに想像がついていたし家電を素材にした作品を美術コレクターなどは手を付けないという一般的認識もあった。それでも後先考えない若気の至りは「青春美術」の無謀のなせることであり、力技で強引にねじ伏せるといった狂気じみた行為であったのかもしれない。

another story 02
 この作品は、茂登山清文先生に声をかけられた1991年末~1992年年始にかけてのグループ展 cool break へ出品することを決め、91年秋より制作を始めた。勝川のアパートでの制作が限界だったので、年末二つのグループ展出品のため、瀬戸に仕事場を借りたのである。陶芸家中村康平氏が陶壁制作用に借りていた栗木製陶所の一角をシェアさせていただいたのが始まりで、康平さんが金沢に帰る94年頃まで制作場のシェアは続いた。

(つづく)

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about my work: Kinetic structure  2016年10月8日土曜日

ライブカメラ ビデオ ストラクチャー  2015年12月20日日曜日

Diorama of EHM 1992 -01  2014年5月12日月曜日






2021年10月31日日曜日

「古い3D」と「新しい3D」(その0)

今日は、白地に黒一色によるドローイングをメインにしたインスタレーションを二つ見た。


クレメンス メッツラーさんによる「運河に描く」(中川運河)と、伊藤千帆さん、小川友美さんによる交換制作「hokakara」(ガルリ ラベ)だ。


クレメンス メッツラー「運河に描く」ビューポイントから見た風景(中川運河)

ビューポイントが設定されている

クレメンス メッツラーさんは名刺にはイラストレーションと明記されていることからも「イラストレーション」を表現のフィールドとして活躍されてる、一方、中川運河に関するいくつかのプロジェクトにもその始まりの段階から精力的にかかわりのある活動をされている。

数年前はコンピュータによって描き起された中川運河が活発に機能していた時代の水際風景を綿密な取材と現在の風景や写真を合成した写真イラストレーションとしてプリントアウトして展示されていた。

その時の印象は平面的なイラストレーションという印象である。

画面が垂直水平にカチッと構成され、斜めの線が、倉庫群の屋根やクレーンなどに見られるものの、奥行きを表現するために用いられているのではなく、あくまで四角いフレームに平行な面のレイヤーが破綻することなく目に届くという意味で画面分割として用いられ、圧倒的な奥行き感を強調するといった消失点を持たないすごく浅い画面の印象だった。

そして今回のインスタレーションもまた、圧倒的な平面性を示していた。


今回は古い時代の中川運河の写真などから取材した労働者や船がペン画によるイラストレーションで制作され、その線画を現実風景のスケールに拡大トレースされ(小学校児童参加によるプロジェクトとして実施されたらしい)、時を超えた現代の風景に合成されるといったインスタレーションである。

プロジェクト系のアート表現、サイトスペシフィックインスタレーションなど近年のアート状況のお約束はすべて盛り込まれているが、私が気になったのはその作品がビューポイントを設定していることである。そのことにおいて、この展示は絵画であるということだ。というか古くから現在まで続く絵画の根本的な問題を扱ったものであることを示している。

指定されたビューポイントから見る時、現実の3次元空間の風景が、イラストレーションの線画によって一層強調され、圧倒的な平面性を示していた。僕が見た日がピーカンに晴れた日であり、風もなく運河の水面が鏡面のように倉庫街の風景を映していたことも影響するかもしれないが、現実風景を見るという体験が、美術館の壁の前に立ち絵画を鑑賞しているような奇妙な感覚に襲われたのである。


私たちは街の中に仕組まれるアート作品を見る時、現実空間に介在する異物としてそれを見る癖がついてしまったが、今回のメッツラーさんの作品は、本人の意図はわからないが、いみじくも街の風景の中で「絵画の構造を見ろ!」というようなメッセージをその作品は発していたと感じたのである。









XYZ軸空間に投げ込まれる

まずこの展示のDMが届いて詳細情報とガラス張りのギャラリーウインドウからの展示写真を見たときに、鉄のような硬質な黒く塗装された線材と同じく黒く塗装された木の枝による立体物を二人の作家が交換制作したものかと想像したのであるが、現実の空間に入るとその思い込みは裏切られる。

白い壁、天井ガラス張りの窓、ショウウインドウのような空間。

伊藤さんは近年、インスタレーションを制作するとき展示空間をCADによるシュミレーションで綿密に検討していると聞く。今回の交換制作も、CADによるシュミレーションで小川さんとの「交換」で展示が検討されたとのこと。




展覧会DM


シュミレーションと現実空間

シュミレーションを仮想空間と呼んでもよいが、メタが提示しているアバターによる仮想空間での体験を体験するような、実際の現実空間がモニター中のXYZ箱に投げ込まれたような錯覚を覚える。それはあくまでCADによるシュミレーションが行われた空間であると知っているからにすぎないが。

白い空間で黒い線によるテープドローイングや黒く塗装された枝や角材は、それ自身の奥行やボリュームを持たないように感じられる。


シュミレーションは現実を体験するためのメタ空間である。

メッツラーさんの現実空間が絵画平面に置き換わったような体験を強いているのに対し、ここでは絵画的な要素としての線によって
そして二つの作品体験を構成しているのは白地に黒い線であるということに共通点がある。


(途中ミカン、つづく)




2021年10月29日金曜日

スモモの樹

 

まったく、突然、いきなり、季節が変わった2週間前、

雨のち、寒気、さむい朝、冬支度

その日を境に自身の変化を実感し、吉祥のあかしと心にとめる。



その日から二週間、

ここ数日の温かさで春が来たと間違えた李の芽が一つ花をつけ、一枝が若葉を芽吹く。


来年のための新たな素材の実験をしていると、

頭頂がまだ黒っぽい若い紋付がバタバタと足元に飛んできて、互いの気配に驚くも、地面の虫をついばんではその枝に戻るを繰り返すこと暫し。




夏の日には大量の果実として授業後のおやつを提供してくれたスモモ、

来年は廃墟の鳥獣たちの胃袋を満たすのか、



それともバッサリされるのか


ポカポカテラスの秋の夕暮れ






2021年10月19日火曜日

211019 : ムーミンコミックス展を見に行って、改めて原画とメディアについて考えた。

 




10/19/2021:  名古屋市博物館で開催中のムーミンコミックス展を見に行く。

トーベ・ヤンソンさんの原画の小ささにほんとに驚いた。

その驚きはダ・ビンチ先生の大量の手稿を見た時の驚きにも感じたものだった。

印刷複製技術が発展した現代において、私たち多くの観客は現物を見る前にまず画集などの本など印刷物で、現物を見る前にイメージが大脳に刷り込まれている。特にネットが発展した情報社会では、メディア画像によって反射光イメージでなくRGBの透過光によってイメージが刷り込まれる。(紙に印刷された反射光で本を読む・見る時と、携帯画面やPCモニターなどから透過光イメージを見る・読む時とでは脳の反応する部分が異なるという説を以前読んだことがあるが、それはまた別の話。)


デザインアートソースとしてなじみのあるスナフキンのイラストは版権元よりデータでライセンス契約しているカンパニーに使用許諾されて、そのなじみのイラストをプリント柄で使用したこともあるのだが、その原画を見たことのない者にとって商品サイズから割り出した任意の大きさでの使用と、原画を見た時とのずれは「こんなに小さい!」と、本当に驚きだった。

そのペン画は修正のホワイト入れもなく、確信的な線で描かれ、まるでエッチング版画のようである。「エッチング版画?」とつぶやいて、あらためて気づいた。コミックの原画=版下もエッチングも複数印刷にかかわる表現ということで共通しているから当たり前のことなのだ。と。そう考えるとダ・ビンチ先生も「いずれ出版を考えてた」ということを何かで読んだことがある。そしてそれらはできあがりの印刷物に近い大きさで作られる。

上画像のスナフキンの原画にはトーベさん自身の鉛筆書きによる指示メモで82%と書かれている。

コンピューターモニターからの透過光による視覚が当たり前のようになって、データとして画面の中で自由に拡大縮小できるデザインワークが一般的な時代には、スケール感が希薄になる。


原画とメディアの関係。こう考えると北斎の浮世絵版画などは、原画が版木に糊付けされ版木と一緒に彫りこまれることにより原画というものが存在しない。というより印刷工程の中で原画が消滅する。

(つづく)





2021年10月18日月曜日

211015/08:47

 




早く着きすぎて、鍵の開いていない教室周辺を探索しながら、何気に携帯を弄って時間潰しをしていると、良い時が切れたので、今日もよい日だ。202110150847




早く着きすぎて、鍵の開いていない教室周辺を探索しながら、何気に携帯を弄って時間潰しをしていると、良い写真が撮れたので、今日もよい日だ。202110150847





早く着きすぎて

鍵の開いていない教室周辺を探索しながら

何気に携帯を弄って時間潰しをしていると

良い時間を切り撮れたので

今日もよい日だ。


202110150847


2021年9月28日火曜日

小説「観察者シュレディンガーの猫氏による当事者としての観察日記」#01(年金美術刊)

 吾輩はシュレディンガーの猫である。


「シュレディンガーの猫」という名は、吾輩の生みの親シュレディンガー博士によっての論文からそれを読んだ人々によって、そう呼ばれてるに過ぎないから厳密な意味での氏名ではないが、多くの人が認知了解していることからも一般名詞のようなものでもあると思っている。

一般名詞のような氏名とはいかなるものかといえば、北斎やダビンチのような多くの人が認知している個人を超えた氏名ではあるが、一方で吾輩は生きてもいるし死んでもいるという曖昧な存在なのだ。


量子論の世間では、吾輩は生きてもいるし死んでもいるという箱の中に閉じ込められている。

時々、箱を開けるものが現れて、その瞬間、吾輩は生きたり、死んだりしているのである。

この実験から導き出された仮説はいまだに議論の対象であり、仮設そのものが否定される時が来ると、その時本当に吾輩は晴れて成仏できるのかと期待に胸膨らましてるわけなのだけれど、はたしてその仮説が乗り越えられた時の後も歴史上の曖昧な猫として存在し続けなければならないことに恐怖を感じたりもするのである。



そしてこのあいまいな状態に閉じ込められている吾輩が、吾輩こそが観察される主体であり当事者として、吾輩自身の観察を語ることこそがこの世界の片隅のほんのささやかな症例ではあるけれども、もしかしたら同じ状況に置かれているかもしれない者たちにとっての生きてゆく助けになるかもしれぬと思った次第なのである。

なにせ、今のご時世、嘘やデマが大手を振って多くの人たちの大脳に直接攻撃を仕掛けている大戦争真っ最中であり、迷信と科学をすり替える大革命が500年ぶりにいとも簡単に成功してしまったという恐ろしい時代が到来してしまったのだから。

そうだからなおのこと、ほんのささやかではあるけれどこの当事者吾輩のつぶやきは、そのことに於いて公共性を帯びるのではないかと思った次第である。


肺と満月

ことの発端はこうである。


9月20日 、明日は中秋の名月で今年は満月という日にいつものように衰えた気管支の筋肉と、横隔膜の筋肉を鍛えて大きな呼吸を回復するため愛知池に歩きに行った時のこと。この日は天気よく、台風も去った後で気圧の谷が近づいてくるにはまだ時間があった頃だと記憶しているのだが。しかし、愛知池の駐車場に到着すると東郷ダムの地平線近くに見事な十四夜の月が昇っていて、階段を上って歩き始める前から呼吸困難な感じで、つまりは満月=満潮=大潮=月の引力最大という連想より、“満月というわけで呼吸困難”という結論に至ったわけである。よってその日は東郷ダムの直線往復のみ、2,669歩で勘弁してもらって。えっ、誰に勘弁してもらった?って、主語は誰?などとご質問もございましょうが、それはほれ、吾輩をコントロールしている大いなる存在とでも言いましょうか、とりあえずそんな塩梅で帰ってきたわけである。

しかし、翌朝3か月ぶりのDr.が言うには

「満月は関係ないと思うよ。。」「どちらかというと気温とか。。」

いやいやDr.、

「もちろん台風が近づいた日は苦しかったんですが。。」


「医者」と「患者」が今の吾輩の重大テーマでもあるのだが、今風に言えば「当事者」でない知見、見識による観察者である「医者」はその<病>を経験したことがあるのでしょうかということなのである。

例えばDr.は、ちょっとした怪我とか、季節性のカゼや食中毒とかそういった類の病はもちろん経験したことがおありでしょう。しかし、吾輩のような高齢の不可逆的な病とか、その時の苦しみとか、どこまで我慢すればよいのかとか、そういったことの適切なアドバイス返答はDr.当事者としての自身の経験によらないということで、本に書いてあることや論文で発表されたことから導き出された定説による知見でありまして、もちろん彼の対面する患者=被験者からのデータや所見によってもたらされた彼自身の当事者としての経験を否定してるわけではありませんが。

吾輩の「肺が肥大しているからなのか、首の太い気管支を両側から圧迫するように苦しい」と言った言葉を受けて

「いろんな表現をする人がいますが、その太い気管支よりむしろ末端に枝分かれした細い気管支が細くなっているから。。」

と、Dr.のその「いろんな表現をする人」という言葉に、「患者」のいろんな表現がむしろ知見、見識につながるのではないのかと吾輩などは思うのである。





------------- 注

「年金美術」とは:

このブログの著者である橋本公成によって2021年1月より年金受給者になったことにより設立した概念、およびその活動。

「年金美術」の活動には小説のほか未公開の「100円レシピ」などがある。

2021年9月22日水曜日

肺と満月


 

9月20日 

明日は中秋の名月で今年は満月です。

というわけで呼吸困難。よって今日は東郷ダムの直線往復のみ、2,669歩で勘弁。






210921--------

しかし、翌朝3か月ぶりのDr.が言うには

「満月は関係ないと思うよ。。」「どちらかというと気温とか。。」

「もちろん台風が近づいた日は苦しかったんですが。。」


「医者」と「患者」が今の私のテーマでもあるのですが、今風に言えば「当事者」でない知見、見識による観察者である「医者」はその<病>を経験したことがあるのでしょうかということなのです。

例えばちょっとした怪我とか、季節性のカゼや食中毒とかそういった類の病はもちろん経験したことがおありでしょう。しかし、高齢の不可逆的な病とか、その時の苦しみとか、どこまで我慢すればよいのかとか、そういったことの適切なアドバイス返答は自身の経験によらないということなのです。

そのことは、「肺が肥大しているからなのか、首の太い気管支を両側から圧迫するように苦しい」と言った私の言葉を

「いろんな表現をする人がいますが、その太い気管支よりむしろ末端に枝分かれした細い気管支が細くなっているから。。」

とその「いろんな表現をする人」という言葉に、「患者」のいろんな表現がむしろ知見、見識につながるのではないのかと私などは思うのです。












2021年9月15日水曜日

2021年9月12日日曜日

210910 バイクが壊れたので何年ぶりかでスクールバスに乗る。

 

走ったり、急いで行動することができなくなったので、通常より1時間前に現地に到着できるよう前日に入念に時刻表をチェックしてタイムスケジュールを立てる。

外出の3時間前には起床して、ゆっくりと準備する。

とにかく焦ったりするとすぐ発作が起きたりするのだから、通勤通学ということも、それ自体一大行事なのだ。


05:53 Minowaike bus stop


日の出前に家を出て、バス停で日の出を迎える。


そういえば小学生のころの通学、日の出前に家を出てネオポリスの上り坂を振り返れば二上山越しに白い太陽が昇った光景を思い出す。

その頃、小学1年から5年間の満員電車とバス通学は子供心に「大人になったら、ぎゅうぎゅう詰め電車バスのこんなつらい毎朝のサラリーマンには絶対なるまい。」と決心させたのではあるが、美大を出る時には自ら望んでサラリーマンになったのである。


早起きは苦手



久しぶりの早朝の電車は社会の活動を体感できるが、この奇妙な状況にあってはその活力もまた奇妙な方向にエネルギーを放出していて、そのことがより一層奇妙な圧力を作り出し迫ってくる。

同じ場所と時を共有するために、みなの集う同じ場所へ移動する。

この奇妙な状況が起こる前、人々はそのことを当たり前のように受け入れていて意識することさへなかったのであるが、今ではそれこそが「悪」であるとでもいうように忌み嫌われることとしてメディアが宣伝する奇妙な社会が成立してしまった。

人が集うという文明の基本はいとも簡単に破壊されるのを目の当たりにし、それどころかこの情報戦争は、扇動と言論統制によって最小の社会単位である親子や家庭をもバラバラの「個」として囲い込もうとしている。あれほど「表現の不自由」を叫んでいたあの人たちは、今では”ロックダウン”だの”ワクワクパスポート”だのと手のひら返しと、あるいは沈黙を決め込んで、不自由を強制する側に加担しているようにさへ見える。



07:28 Kasugai station



とはいうものの、私よりも遠くから授業に参加している人もいることを考えると、夜明け前に起きて、始発のバスや電車に乗って学校に行くというのは、改めて考えれば大変なことだ。たった一日でさへこのありさまの自分と比べれば、毎日当たり前のように何時間もかけて通勤通学を行うという行為それ自体は非合理的でもありつらいに違いない。

しかし、face to face で人に会うという現場で何とわなしに芽生える「うれしい」や「たのしい」は、そのつらさを忘れさせてくれる。




昨日の午後、ひと月前に修理した原付のエンジンが再び止まって、あせるが、再びロードアシストに頼んで30年くらい付き合いのサイクルショップに持ち込み「もう一度オーバーホールしてみる」という言葉を聞いて、明日の授業へは電車バスでと腹をくくった翌朝の出来事。