2013年11月16日土曜日

project "SNAKE LEGS"   プロジェクト「蛇の足」

最後の授業




「蛇に足があるように物語には続きがある‥‥」


小説「顔本」の冒頭の言葉から発想したプロジェクト。
この小説自体が蛇足であるのだが、あらためて「蛇足」ということについて考える。

物語は続く。それは「類」としての物語であるが、その「大きな物語」に「個」としてのアプローチを加えることで大きな物語自体が転覆するようなテロのような意味を、時に持ってしまう場合がある。
つまり人類の歴史とはこのようなものなのだが、あらためて「蛇足」という視点から物語りをクローズアップすることでより顕在化するプロジェクトである。
ここで言う物語には小さな個としての物語もふくまれれば「歴史」というすでに顕在化し多くの人が共有していると信じている大きな物語も含まれる。
リノベーション自体に言及しているプロジェクトでもある。


既存の簡潔している作品に余分に追加してそれ自体が脱臼してしまうもの。
作品は芸術全般に限らずあらゆる日常に適用できる。

完結している小説などの物語の続きを書く。
完結している絵画に余分なものを付け足す。
完結している日常品に余分なものを付け足す。

などなど


追記:240228 -------
  しかしこのプロジェクトが厄介なのは本歌取りのように、元の芸術を芸術でなくしてしまう暴力的な場合もあるということである。
場合によって修復という名目で行われることもあり、付け足しに限らず、洗浄という名のもとに元の芸術を洗い落としてしまう場合がある。ダビンチ先生のアヅレーションが洗浄により無残な状態にされたように。

「類」としての記憶とDNA

plugged in 
(media select 2001の声明文をさがす)

すべてのものはデータ化される。
そしてそれはクラウド上で共有される。

それでも人は一つの成果物を見るために何万マイルも旅をする。
それはデータからアウトプットする物質に対するフェテェシズム?。
本当に自分が対象、空間に向き合って体験を欲望すること?。リアル


もはやそこには領域は無い。
「領域を超える」とは、「世界」の観察者が、どこに立っているかの立ち位置を表明すること。
それは「世界」の観察者の方法論にすぎない。

もはやプライバシーは存在しない。


unplugged
それでもすべてのものはデータ化されない。
そしてデータ化されないものはクラウド上で共有されない。



個人のプライヴァシーが崩壊したインターネット社会ではプライヴァシーという概念がなくなる。
クラウドコンピューティングの環境では繋がった個の記憶の共有が、自と他を分ける感覚が希薄になり大きな類の記憶に置き換えられる。
大きな物語としての歴史でなく、小さな物語の莫大な集積ビッグデータで満たされる。
クラウド、それはあたかも類としてのDNAの外在化、顕在化のようなものである。
~幸村真佐男氏のアーティストトーク 130823@N-mark 参加後に記

2013年11月15日金曜日

光琳の松島 2


から続く



再び光琳の松島図の模型を見ていて、あらためて推測したことは、左三曲と右三曲でイメージの視覚体験が異なることについての発見である。
それは、この屏風の中心に座って見る人の右眼と左眼の視覚、両眼視の視覚について関係するのではないかということだ。

ちょうど中央の折れ線を境に岩の描き方が、左三曲と右三曲で異なるのだが、右三曲の岩は光琳ではない誰かによる加筆であるという説が一般的である。それは左三曲の描き方のように塗り残しの輪郭線によって面が区切られず、面と面が片ぼかしによって接する描き方になっているからであるが、そのことが右三曲が遠景に、左三曲が近景に見える効果を表していることもまた事実であり、塗り残しの輪郭の無い片ぼかしによる右岩山は誰かの加筆によらずとも輪郭をつけない表現であったことが推測される。

座って左三曲を見ると、海岸の砂浜に立って海を見たときのように水平線が視線の上にあり、海が盛り上がって見えるのに対し、立ってこの屏風を見下ろすと右三曲は崖から見下ろした時の遠景の視界が広がる。

そして、この屏風の中央に座って見る時、右三曲と左三曲はそれぞれ右眼と左眼に対応する。
右眼は右三曲を左眼は左三曲を見ている。と思って見ている。
網膜では上下が反転し、脳みその視覚領では再び上下反転する。
それよりも横長のこの屏風を見ている視野が分割された網膜像として右眼と左眼に入った視覚情報が右脳と左脳の視覚領にどう認識されるか。

つまり両眼視で見るこの屏風のイメージは、両眼視における視覚認識を意識したか、していないかに関わらず、左右のイメージ認識についてを実践図解したような絵画になっているのではないか。

両眼視は遠近の認識に効果を発揮するのであるが、この屏風絵は左右に異なる視点で描かれたことにより、より奇妙な遠近認識を生むことになる。


つづく









2013年11月10日日曜日

131110 飯村隆彦先生のパフォーマンスを見た



2013年11月10日  

record: Today's performance

Takahiko Iimura Film Performance "DADA'62"

@ NAGOYA City Art Museum


2013年10月25日金曜日

2013年10月15日火曜日

構造的な色

画面の上で色を作るということは絵具としての彩色、塗装とは異なる。
絵具というのは物質の化学変化の状態を時間経過を並列させて共時的に見せるということである。
同一画面で、視られる時に同時間に見せるということ。(シュレディンガーの猫)
視ている時にのみ存在する、作者によって仕組まれた物質の時間的経過の並列。

L'ANNUNCIAZONE   /1984 / Kiminari Hashimoto / 130 x 130 cm / Oil, pigment(Iwaenogu) on rusted aluminium / 


"L'ANNUNCIAZIONE" (1984年制作)では、以下の方法でアルミ地に暗灰色の面を作った。
油性インクマーカーにより図象を描く。あるいはアクリルラッカーによりシルクスクリーンで図象を印刷。
エッチング版画用の塩化第二鉄溶液を塗布。
油性インクマーカーで描かれた部分、あるいはシルクスクリーン印刷以外の部分を腐蝕。
変化の後、アクリルラッカーで印刷された部分をシンナーで洗い落とす。
これは、画面上で色を作るというよりも、反射の異なる面を作るという目的に拠っている。
反射の異なる面を作成したその後に、岩絵具(番目の異なる数種の岩群青)をカシュー(人造漆)に溶きピクセルを描く。

光琳の《紅梅白梅図屏風》の中央部の川に明礬によるマスキングが使用されていることを知ったのは20年以上たって後のことである。




*明礬によるマスキングと硫化という現象を用いて定着された光琳筆《紅梅白梅図屏風》の中央の川

まず川をイメージした面に薄い銀箔を張り、明礬液で流水紋の図柄を描く。その上から硫黄の粉末をかけて3日間寝かせておくと、明礬液で描いた図柄以外のところの銀が硫化されて黒い硫化銀となる。
明礬液をマスキングとして使用し、それ以外の部分を画面上で直接化学変化を起こし色として定着する。その現象を定着する。
(2011/12/19 NHK「極上美の饗宴」と2012/02/05 NHK「日曜美術館」で報告された光琳作《紅梅白梅図屏風》の中央の川についての科学的調査の結果による。)

眼差しのゆくえ

建仁寺の二つの双龍図。
一つは海北友松による障壁画。(建仁寺本坊大方丈障壁画 礼の間「雲龍図」8面)
これは二面が障子でその対角線に二面の襖に描かれている。(重要文化財 京都国立博物館寄託で建仁寺の展示はキャノン「綴」プロジェクトによる)
http://canon.jp/tsuzuri/



南面の縁側から正面と左面の龍を見るとどちらの龍もこちらを見つめている。




また、東面の廊下から正面と右面の同じ龍を見ると、この時も二つの龍はこちらを見ている。
この部屋で修行する僧は、どこからも双龍によって見つめられる。にらまれている。



もう一つの双龍図。
講堂天井に描かれたそれは見上げる私たちに視線を交合わせない。


二つの双龍図の目の描き方が、視る者との眼差しに関係する。
白目の左下に黒目を描かれた龍と、白目の右下に黒目を描かれた龍の二つの龍が配置された海北友松の雲龍図。
白目の左上に黒目を描かれた龍と、白目の右上に黒目を描かれた頭部を近づけて龍が向き合う天井画の双龍図。




>思考の飛躍

言語獲得以前の赤子の視線についての実験報告

言語獲得段階の赤子はモノを指し同時に同意を求めるように人の顔を見る。
この段階で赤子の視覚はまだ完成されていないが、人の顔の目を伺い見ていることが実験で報告された。
顔の中の二つの丸い瞳の動きをピントが合っていない視覚で赤子は追いかけながら他者の同意を得るように言語を獲得する学習を行っている。
ぼんやりした視覚の中で、眼差しの行方とその表情を追うことで、視られることを意識しながら言葉の獲得と認知を学習する。