2012年12月23日日曜日

2012/12/19 15:40

徹夜二日目、明け。
今年の、自身でしかできない仕事に区切りをつける。

6時半、帰宅。

9時40分、着信あり。


15時10分、田辺駅着。
15時15分、病室に到着。

鼓動を感じる冷たい手を握る。


待っててくれたんだね。


握った手から伝わる鼓動は
強くなったり、
感じなくなったり。

そして再び打ち出したり。

この鼓動は
わたしのものか
あなたのものか
どちらのものかわからなくなる。


15時40分、医師が最期の時を告げる。


待っててくれたんだね。


ありがとう。
そしてさようなら。

2012年11月28日水曜日

光琳の松島


30年ぶりの再会を楽しみにしていた光琳の松島。
30年前は繰り返す曲線による波の表現がブリジットライリーのオプアートのようで目がくらんだことだけが記憶に残っているが、今回は岩にばかり目がゆく。

三つの岩の塊とその視点の違い。
明らかに左3曲と右2曲では視点が異なる。
波を隠すように金泥ではかれた左2曲上部の面は水平線の効果を与えて、左二つの岩の塊の視点を低い位置にする。
右2曲は崖の上から見下ろした遠景の岩崖で視点は高い位置にある。水平線は画面の上よりはみ出し、右上角でうねるように渦を巻く。
そして異なる視点を合体させる役目をはたす右から3番目の曲。
折れ曲がっていない図録の写真のように正面視でこの屏風を平面絵画として見ているだけだとつじつまが合わないような空間が、装置としての屏風を体感するように右端から、左端からと視点を変えて見ると、いっそうダイナミックな作用空間を現出させる。

光琳百図のモノクロの図版では岩の塊の位置によって右から左に向かってなだらかな遠近感があるような絵画的空間であるが、現物の屏風を目にすると真ん中の岩の塊が折れ曲がって見る者の方にせり出す山折の線と合体し(立体化し)一番手前にせり出している。
そして右の岩崖は谷折の線と合わさって奥へと後退する。
真ん中の岩からこちらに向かってくる遠近は見る者の視点を経由し、弧をえがくように右1曲と2曲の谷折りの線に向かって後退する。屏風が時計逆回転に回転するような錯覚にとらわれるのである。




「松島図屏風」 尾形光琳筆 6曲1隻 紙本着色 150.2 x 367.8 cm (屏風を開いた状態)
Fenollosa-Weld Collection  Photograph(C)2012 Museum of Fine Arts, Boston. all rights reserved.





2012年11月21日水曜日

Heihachiro's Ripples 03 ~平八郎の「漣」3

大阪市立近代美術館心斎橋分室に展示された「漣」は左のポストカードのように屏風を全開した状態で壁にはりつけられている。

しかし屏風は本来、畳間に少したたまれた状態で直立する。
その本来の状態でのインスタレートが平八郎の「漣」という装置とその作用空間を見る作法であるだろう。

180度に開かれた状態で見る時、それはタブローとして見る絵画である。
しかし、少したたまれた状態で畳に直立する時、中心線に向かって遠近が発生する。
開かれた時の図の奥行きは画面左上に向かってなだらかに後退するが、たたまれた時の奥行きは中心線で屈折する。

Heihachiro's Ripples 02 ~平八郎の「漣」2

平八郎が意図したかもしれない装置の作用空間を確認するために1/10のスケールモデルを作る。

美術教科書の印刷と絹本着色という説明だけで誤解していたこの作品を補完するために。

図版による黄色みがかった白っぽい地色は金箔の上に貼られたプラチナ箔の効果ではなく、撮影時に反射した色が映り込んでいるものであるだろう。
熱転写でプリントアウトしたものを裏側からシンナーで表面のマゼンダがかった青紫色を洗い落とし、地の部分にラッカーの銀色(アルミ粉)を塗る。

現物の地は強烈な銀色の反射効果はない。
そして岩群青で描かれた図は、吸い込みのある紙にマジックインキの青で描かれたように光を吸い込んだ青の図である。

Heihachiro's Ripples 01 ~平八郎の「漣」1



平八郎が意図したかもしれないことを期待して見に行った「漣」。
あぁ~なんということだ。屏風は180度に全開され、無残にも壁にはりつけにされている。
それもガラスケースの中で、トップライトを浴びながら。
図としての「絵画」を鑑賞しようとする近代美術館的展示。
はたしてこのインスタレーションは平八郎の装置の効果を伝えているか。
表現方法としての「インスタレーション」ばかりに気を配る昨今、ものを置く、設置するということがどういう効果を指向するか、本来の意味でのインスタレートがもっと考慮されるべきである。
そうすれば80年前に作られたものの現代的意味が絶えず現前し、目の前にたち表れるのだが。


http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000166029.html


美術館を出、松屋町に向かって歩き末吉橋から東横堀川の漣を撮影する。
阪神高速1号環状線高架に反射する漣の効果。
この反射効果をアーティフィシャルに、住空間に、屏風に貼られたプラチナ箔と岩群青で平八郎は試みようとしたのではなかったか。

東横堀川末吉橋より見る

2012年11月19日月曜日

2012年11月5日月曜日

121104 今週の田辺

早朝の田辺 (付添い泊の東和病院前) 121104 06:24 

坪庭の杜鵑草 121104 11:02

121104 15:00 針中野
「針中野」地名の由来になった鍼灸院、平安時代より一子相伝。
INにでてきそうなたたずまい。

121104 15:14 大阪府立東住吉高等学校
何十年ぶりの母校。校内に立派な芸能文化実習棟。
高等学校初の芸能文化科を設立後'94年に建てられた。

今週のおばんざい(1) あげのたいたん、ゲソと小芋、小松菜
病院付添い泊の母のために 121104 22:26

今週のおばんざい(2) 鍋いっぱいの豚汁
病院付添い泊の母のために 121104 22:26

田辺の朝日(付添い泊の東和病院より) 2012年11月5日 7:10



父の入院は実家から徒歩数分の病院に。母は付添い泊で一か月半が経過。

2012年10月31日水曜日

Artficial/Natural   人工と自然

西欧キリスト教世界観では、ヒトは神が創ったところから始まるゆえ、ヒトは自然から分離された存在に立っている。
人工と自然は対峙する関係になる。

一方で、いたるところに神が同居しているこの国ではヒトも自然に含まれる存在である。
ヒトは自然の一部であるから、そのヒトが行う人工的なことは自然なことであるという考えになる。
自然界に存在しないものを創造し、もともとある自然界に影響をあたえることがあっても、
はたまた、生物的自然な状態に人工的に変化を加えることがあっても、
それは自然に含まれているヒトの行うことであるから自然なことなのである。

医師との面談で、老衰が進行する高齢者への胃婁が西欧ではほとんど行われず、点滴による延命処置さえもまれであるという話を聞いた。
高齢者への胃婁がこんなに多く行われているのは日本だけ、とも。

そのことを聞いた時、西欧と日本の世界観、広い意味での宗教観の違いについてが瞬時に頭をめぐった。
西欧で高齢者への人工的な延命処置が一般的でないとするならば
西欧における「自然な死」については、日本語の字義どうりの「自然な死」と異なり、
その根底にはヒトが自然から分離している存在であるという考えがある。

「美しい自然の国」「自然を愛する国民」という言葉の裏にあるこの国の「自然」観についてと、
「自然な死」という事について改めて考える契機になった。

2012/10/15

2012年10月20日土曜日

121020 芋茎

 
芋茎のおひたし




wikiでずいきを調べると興味深い記事に出会った。
なじみの素材、瀬戸の陶器(白雲)の材料のドロマイト土が、口にしても無害という記事。

調理法 乾燥したもの
貯蔵に耐えるので備荒食糧に適する。加藤清正が熊本城の築城(現在の城より改築前に当たる)に際して篭城を予見して、畳の芯になる畳床(本来は藁床を用いる)や珪藻土とベントナイトもしくはドロマイト土(両方とも口にしても無害な土類)を主成分にした土壁にスサ(土壁に補強のために梳きこむつなぎ。本来は藁を用いる)として芋茎を用いた逸話がある(ベントナイトについては水分を吸うと膨らむ性質があるので乾パンの原料にも日中戦争以前より用いられてきた)。近年、災害時の非常食として、干した芋茎の利用が模索されている。


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ずいきのおひたし (2012年8月5日)

干しずいきと干しえび (2012年8月5日)


2012年10月12日金曜日

total recall

病院のソファーに寝ころがり、
iPS細胞の記事を読みながら、
記憶の再生について思索する。

働かなくなった
身体中の筋肉をすべてiPS細胞で再生したとして、
健康な筋肉の臓器に接続されたとして、
<未決>

iPS細胞で再生された筋肉が、
再び老化して、
再び交換できるとして、
そのつど、新たな経験による記憶が
筋肉にリセットされたとして、
<未決>

そして寿命がどんどん伸び、
人口増加が社会問題になり、
そのため人々が交換できる回数を取り決め、
取り決めによる再生回数が寿命になるとすれば、
<未決>

身体のほとんどの部位が再生されたとして、
その人固有の経験としての身体の記憶は、
再生可能か
そもそもその人固有ということが無意味になってしまい、
<未決>

記憶を必要として
写真を集めるレプリカント。

(2012/10/06)

2012年10月10日水曜日

ボーマン船長の視線

キューブリックによる「2001年宇宙の旅」の後半10分のシーン。
白い部屋に着陸したポッド。

宇宙服に身を包んだボーマン船長が
眼をやった視線の先に、
食事をする老いた自身の姿。

その老いた老人が目を向ける視線の先には
ベットに横たわる自身の老いた姿。

そしてベットに横たわったまま、
片手を宙に翳す。

その光景は、デジャヴ。
ベットに横たわる老いた身体を、
見つめるのは自身であるが、

その横たわる姿は、未来の自身の姿。
未来のデジャヴ。


病室にて (2012/10/06)

2012年10月9日火曜日

あたりまえのようであたりまえでないこと

長居公園 植物園を望む


息をする。
水を飲む。
頭を起こす。
寝返りをうつ。
瞼を閉じる。
口を噤む。
立ち上がる。

そんな無意識で、あたりまえのように行っていることが
あたりまえにできなくなること。
意識はあり、脳は命令するのに、筋肉が動かないこと。
生まれたての赤子が無意識に獲得してゆくことを、
意識がありながら喪失してゆくこと。

(2012/10/06)

2012年10月2日火曜日

おちつきのない脳

思考の対象と、
獲得した経験と、
文字言語の範囲内でいつも散歩ばかり。

目的地は見失われる。

こまったことではあるが、
時に良いこともある。

2012年9月6日木曜日

デコダイ(あら)の四段活用

立派なおでこのチダイのアラをスーパーで見つけた。
制作意欲がそそられる。



塩焼き
縦割りされた頭部をまずは塩焼きに。
刺身もおいしいが、塩焼きならやっぱりおかしら。
眼の下のほほの部分と後頭部の肉が弾力があり美味。


塩焼きの身を食べた後の骨、皮を鍋に入れ、水をはりぐつぐつ煮る。
焼いたため脂はだいぶ落ちているが、それでもこってりしたゼラチン質の煮汁ができる。
焼いた香ばしさのある出汁ができる。

鯛の味噌汁うどん
半分を味噌汁にし、うどんを入れる。
大根の千切り
ねぎを細切り
えのき茸少々
そして、いつものオクラを刻んで。

煮こごり
残った煮こごりを冷蔵庫で保存。



豆腐サラダにフォークで細かく刻んだ煮こごりをかけて






鯛と舞茸のパスタ
骨が少ない身の部分、二切れをポワレ。
にんにくとオリーブオイルで
塩コショウ。
舞茸を入れフライパンに蓋をする。
茹で上がったパスタをあえる。
刻んだパセリをかけてできあがり。







2012年9月5日水曜日

ダイオラマの境界

気になる、そのふちの処理。
気になる、現実スケールとの境目。
イリュージョニスティックな絵画の境界にも似て、
時々使用されている絵画用額縁。
段をつけた木台。
それらは現実空間のスケールと境界を作ることを意識的に示しているのだが。。。


"given"の固定した一点からの視界に作られたダイオラマ


タルコフスキーの「ノスタルジア」に登場するインテリアから窓外に連続して展開するダイオラマ

それらは、



2012年9月3日月曜日

120903 無花果の生ハム巻き




無花果いただいた。生ハム巻きと皮のコンポートをつくる。
セブンイレブンの生ハムロース(¥149-/50g),赤ワインと黒蜜の残りで煮た皮のコンポート。inexpensive !

数日前の学長ブログで思いついた。皮のコンポートはジャムみたいにパンにつけてもおいしい。捨てるとこなし。





fb-橋本 公成  2012年9月3日 

2012年8月25日土曜日

鉄はやわらかい


鉄はやわらかい。木はかたい。

鉄を溶接したり、木を彫ったりしていて無意識につぶやく。
形容は主観的、相対的なものではあるが、
使用する道具と素材との関係もあるが、
「金属は木よりかたい」という大雑把な固定観念が、個々の素材に向き合う時、打ち砕かれる。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120825-00000215-yom-soci.view-000



硬度、引っ張り強度、引き裂き強度、粘度、可塑係数。。
様々な数値により客観的形容は可能であるが、
グニャッときれいなカーブをえがく線路と、変形のない枕木の写真を見、
素材に向き合っていたその時の感覚がよみがえり、
再びつぶやく。



2012年8月19日日曜日

落雷

実家、墓地近くの落雷。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/584865/

ドライ・アーティチョークのパスタ?

立ち枯れの朝鮮薊(アーティチョーク)を見て思い出す。
思い出せない味のこと。

ドライ・アーティチョークのパスタ。
どんな味だったか。

イタメシに目覚めさせてくれた師匠の家でごちそうになったパスタということは思い出すのだが。
インターネットなどなかった頃、その味は忘れ去られ、ドライ・アーティチョークという言葉と食べたという記憶だけが残る。


イタリアから食材を輸入していた人だから輸入したドライアーティチョーク(乾燥アーティチョーク)なるものを食材にしたパスタだったとずっと思っていた。

立ち枯れの朝鮮薊を見て、忘れ去られていたその記憶が蘇る。
今でこそインターネットであらゆる情報は居ながらにして入手可能。
さっそく「ドライアーティチョーク」と打ち込みググルこと数秒。
「ドライアーティチョーク」なる言葉は登場せず、ヒットしたのは「ドライトマトとアーティチョークのパスタ」ばかり。
ドライ・アーティチョークのパスタではなく、ドライトマトとアーティチョークのオイル漬けのパスタだったのだ。
それを知ったとたん、口の中にすっぱい唾がにじみ出る。
なんとなく思い出す味。
10数年ぶりにその謎が解ける。

脳みそが記憶することを優先し、言葉を短縮して更新した。
短縮された言葉によって味覚の記憶がどこかに行ってしまっていたのだ。




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ところでガーデンオーナメントとしてもよく見かけるアーティチョーク。
これはいかにして食するものか。

栽培して初めての年は、拳より大きな、梅雨時に咲く鮮やかな蛍光紫の花5~6個を観賞したため食することはしなかったが、2年目には大量のつぼみがつき花が咲く前に収穫。
ガクは硬そうで食べれそうにない。しかし、はたしてガクをどこまでとればよいのやら。
むいていくうちにどんどん小さくなってゆく。

オリーブオイル、にんにくと鷹の爪で、エビと塩湯でしたアーティチョークをいため、マジョラム、オレガノ、イタリアンパセリで仕上げたパスタ。
野菜の王様というアーティチョークはいったいいかなる味か。
今まで食したことのない特別な味にちがいない。
そう期待を膨らませて食した味は、、

ブロッコリーの茎のようないもっぽい感じ。
15年前、借家の庭が小さな食用ハーブガーデンだった時の話。



1996 5/29 レシピ

Kim Jung Gi 氏の視界

Kim Jung Gi 氏のスケッチブックに描かれた車中の空間について、その絵画作用空間を図式化してみる。


トップビューからみた車は四角でなく、スケッチブックの綴じ線に向かって台形になり、スケッチしている本人のリクライニングシートからの視点は扇形に大きく後ろに湾曲し、作者は車の外に飛び出ている。
フロントガラスから見る前方トラック。作者の進行方向正面の視線が、運転手~後部座席へと左側に移動するにしたがって車中のインテリア空間は台形に変形してゆく。
作者の足の位置、カーナビのある下あたりのダッシュボードがこちら側にせり出している。

人の視界は180度より少し少ないが、絵を描こうと対象に注視するときの視界はさらに狭まるだろう。
作者がこの狭い車中のパノラマビューを描くとき、眼球あるいは首は左側に向かって移動しているだろう。
カメラのレンズでこの視界を捉えようとすれば20mmレンズが必要だろう。
ただレンズで捉えた場合、この視覚と同じになるとは思われない。各方向への消失点が強調され視点から遠ざかるものはさらに小さく図示されるであろう。

この何気ない風景の、しかし不思議な遠近感を持つパノラマビューは作者の視点により無意識に調節されながら違和感なく見えるように図示され、オーディエンスはその視界を追体験することになる。
そして画中の個々の部分を追いかけながら移動する視線は、四角いはずの車中空間が歪んで変形した絵画内空間を体験することになる。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=215847178544944&set=a.185190548277274.38254.100003589911336&type=1&theater

2012年8月15日水曜日

120815 池の鯉

 


修理をしてから5年間ほったらかしにしていた池のそうじ。


金魚、初繁殖
鯉は倍の大きさ(約40cmL)に

網に頭をつっこんでアジの開きのようになっていたという銀鰭の頭も再生している。

この赤白コメット、模様に変化なし。もう一匹は赤白の模様が消え全体がオレンジっぽい金色に変化。




Carp, Goldfish

2012年8月8日水曜日

120807-08 Beatle




しばし赤子とたわむれる。




そして翌日、朝帰りの玄関




AM4:20 昨日に続きマンションの階段でカブト。
角の形が異なるので昨日の固体とは異なる。






























今日は画像認識を実験。



モニター画面中の昨日のカブトに興奮気味に立ち上がり、モニター画像に威嚇行動









その後、朝食を共にする。




しばらくして、頭部をガクッと下げて動かなくなる。。


。。。!

寝てる!






2012年8月6日月曜日

1945年7月26日




60年代の遊び場

3年生になって教室は学校の北側校舎に移った。
窓の外には建物が建たないマンション一棟くらいの土地がトタン塀に囲まれていたが、校舎の三階窓からは盛り土されたその空き地がよく見えた。

空き地の向こうには公設市場があり、肉屋の店先の鉄板でホルモンを焼く臭い。
その前の道を南海平野線の田辺駅に向かって行く途中の角はイカ焼き屋、その二軒隣にはプラモデル屋があり、その少し先には友だちんちのペンキ屋さん。店先でいっと缶の注ぎ口にこびりついたゴム系の接着剤を集めては練り、丸め、大きくしてスーパーボールのようなものを作って投げあったり、ちんちん電車の線路上に釘をおいてぺちゃんこになるのを隠れて見たり、
とにかくそのあたりが当時の遊び場だった。



「あそこは昔、爆弾が落とされたんや。今でも不発弾が埋まっているから空き地のままなんや。」

「ふーーん」


そんな空き地は他にもあちこちにあったし、その空き地もそんな一つにすぎなかった。









1945年7月26日、田辺小学校、北に直径数10mの巨大な穴ができた。


写真中央黒い池の右下がグランドゼロの料亭『金剛荘』。その下が田辺小学校。左下から上に向かって国鉄阪和線(左下南田辺駅)
米軍資料による





ワシントンの電報

「第509部隊は…日本に対する一連の空襲を始めた。その目的は搭乗員を目標地域と最後の任務遂行のための戦法に慣れさせ、又一方日本人に高い高度を飛ぶB29の小編隊を眺めることに慣れさせるためである。」*1



8月6日の11日前、8月9日の14日前。

1945年7月26日午前9時26分。

「高知付近より進入せるB29一機は愛媛県東部、淡路島北部、大阪府を経て奈良県に入り、生駒東北部において反転して大阪市内に投弾の後、大阪湾を南進した。」*4


原爆投下目標都市 NIIGATA の所在確認とその周辺での爆撃演習のため第一目標 TOYAMA に向かったB-29 7303号機は富山市が雲に覆われていたため第二目標の臨機の任意市街地目標、大阪に向かう。
第20航空軍の命令にもとづき特殊爆撃任務を与えられた第313爆撃航空団所属の第509混成群団(暗号名"8888")



暗号名"8888"

その目的は高度30,000 feet (9,000m) からの原爆投下訓練。
爆弾は投下後飛行機の進む方向に落ちてゆく。
爆発まで50秒かかるとすれば投下した飛行機も爆発に巻き込まれ放射線から逃れられない。
そのため、投下後すぐに150度急旋回して逃げなければならない。
アメリカ軍は原爆と同じ形・重さ・弾道特性の爆弾(模擬原爆)を使って練習をくり返した。
アメリカ本土や南太平洋で練習をくり返した後、7月20日からは日本各地を使って実際に空襲し練習を行った。


「実際、搭乗員たちがしてきた訓練の頂点だったから、たいへんに役立った。彼らに訓練用爆弾を与え、彼らを一つのピンポイント目標に送り出し、結果を写真に撮り-われわれは彼らに目視条件のもとに投弾することだけを許した」*3


#29
date:1945.7.26
Mission no.9  
V(目視)
爆撃高度:29,000feet
J.T.G(目標コード)90:26-Urban
損害評価"None"


「結果は報告されなかったが、写真は爆弾がほぼ町の真ん中に命中したことを示した。照準点が不明のために、爆発点はプロットできなかった。結果は良好」*2







1991年11月
愛知県の「春日井の戦争を記録する会」が国立国会図書館で、機密扱いが解除された米軍の資料を閲覧していて「模擬原爆」投下の事実を発見した。


2001年夏
お盆に帰省したとき、谷町線田辺駅に向かう途中、真新しい石碑と掲示板*5に貼られた資料によって60年代の遊び場が田辺のグランドゼロだということを知る。



1945年8月9日に長崎に落とされたプルトニウム型の原爆「ファットマン」を模した模擬原爆は、ファットマンとほぼ同じの形。長さ3.5m、直径1.5m、重さ4.5トン、通称「パンプキン爆弾」。

その日、多分、父は九州の陸軍士官学校におり、母は奈良で少女時代をすごしていただろう。
ただ、本家はグランドゼロから数百メートルのところにあり、模擬爆弾でなく原子爆弾であったなら父母は生存していただろうが、父は帰ってくる家をなくし、今の自分は存在していなかっただろう。
このことが自身の原爆に対する身近な想像力である。






























*文献、資料 ---------------
「あれから57年 7.26田辺の模擬原爆証言集」2002年7月26日改訂版
発行/7.26田辺模擬原爆追悼実行委員会
作成/北田辺のまちづくりと歴史を考える会

吉田守男「京都に原爆を投下せよ」 角川書店 1995年

*1,*2 「米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎」東方出版(奥住喜重・工藤洋三・桂哲男/訳)1993年

*3 米軍資料「原爆投下の経緯」(東方出版刊行)ポールW・ティベッツ・ジュニア准将(エノラ・ゲイ機長)のインタビュー回答

春日井の戦争を記録する会編
『5トン爆弾を投下せよ!』(91年刊)/『模擬爆弾と春日井』(95年刊)

*4 「東住吉区史」P508(東住吉区役所 昭和36年3月

http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/hs-mogi.html
http://www.nnn.co.jp/dainichi/kikaku/genbaku/
http://hiranogou.cocolog-nifty.com/blog/cat48836276/index.html
http://tamutamu2011.kuronowish.com/mogigennbaku.htm
http://www.oml.city.osaka.jp/net/osaka/osaka_faq/71faq.html

*5 このページ画像は模擬原爆で亡くなった村田繁太郎さんの子息で村田保春さんが建立した石碑わきの掲示板を撮影したもの。