2013年12月18日水曜日
2013年11月16日土曜日
project "SNAKE LEGS" プロジェクト「蛇の足」
最後の授業
「蛇に足があるように物語には続きがある‥‥」
小説「顔本」の冒頭の言葉から発想したプロジェクト。
この小説自体が蛇足であるのだが、あらためて「蛇足」ということについて考える。
物語は続く。それは「類」としての物語であるが、その「大きな物語」に「個」としてのアプローチを加えることで大きな物語自体が転覆するようなテロのような意味を、時に持ってしまう場合がある。
つまり人類の歴史とはこのようなものなのだが、あらためて「蛇足」という視点から物語りをクローズアップすることでより顕在化するプロジェクトである。
ここで言う物語には小さな個としての物語もふくまれれば「歴史」というすでに顕在化し多くの人が共有していると信じている大きな物語も含まれる。
リノベーション自体に言及しているプロジェクトでもある。
既存の簡潔している作品に余分に追加してそれ自体が脱臼してしまうもの。
作品は芸術全般に限らずあらゆる日常に適用できる。
完結している小説などの物語の続きを書く。
完結している絵画に余分なものを付け足す。
完結している日常品に余分なものを付け足す。
などなど
「蛇に足があるように物語には続きがある‥‥」
小説「顔本」の冒頭の言葉から発想したプロジェクト。
この小説自体が蛇足であるのだが、あらためて「蛇足」ということについて考える。
物語は続く。それは「類」としての物語であるが、その「大きな物語」に「個」としてのアプローチを加えることで大きな物語自体が転覆するようなテロのような意味を、時に持ってしまう場合がある。
つまり人類の歴史とはこのようなものなのだが、あらためて「蛇足」という視点から物語りをクローズアップすることでより顕在化するプロジェクトである。
ここで言う物語には小さな個としての物語もふくまれれば「歴史」というすでに顕在化し多くの人が共有していると信じている大きな物語も含まれる。
リノベーション自体に言及しているプロジェクトでもある。
既存の簡潔している作品に余分に追加してそれ自体が脱臼してしまうもの。
作品は芸術全般に限らずあらゆる日常に適用できる。
完結している小説などの物語の続きを書く。
完結している絵画に余分なものを付け足す。
完結している日常品に余分なものを付け足す。
などなど
追記:240228 -------
しかしこのプロジェクトが厄介なのは本歌取りのように、元の芸術を芸術でなくしてしまう暴力的な場合もあるということである。
場合によって修復という名目で行われることもあり、付け足しに限らず、洗浄という名のもとに元の芸術を洗い落としてしまう場合がある。ダビンチ先生のアヅレーションが洗浄により無残な状態にされたように。
「類」としての記憶とDNA
plugged in
(media select 2001の声明文をさがす)
すべてのものはデータ化される。
そしてそれはクラウド上で共有される。
それでも人は一つの成果物を見るために何万マイルも旅をする。
それはデータからアウトプットする物質に対するフェテェシズム?。
本当に自分が対象、空間に向き合って体験を欲望すること?。リアル
もはやそこには領域は無い。
「領域を超える」とは、「世界」の観察者が、どこに立っているかの立ち位置を表明すること。
それは「世界」の観察者の方法論にすぎない。
もはやプライバシーは存在しない。
unplugged
それでもすべてのものはデータ化されない。
そしてデータ化されないものはクラウド上で共有されない。
個人のプライヴァシーが崩壊したインターネット社会ではプライヴァシーという概念がなくなる。
クラウドコンピューティングの環境では繋がった個の記憶の共有が、自と他を分ける感覚が希薄になり大きな類の記憶に置き換えられる。
大きな物語としての歴史でなく、小さな物語の莫大な集積ビッグデータで満たされる。
クラウド、それはあたかも類としてのDNAの外在化、顕在化のようなものである。
~幸村真佐男氏のアーティストトーク 130823@N-mark 参加後に記
(media select 2001の声明文をさがす)
すべてのものはデータ化される。
そしてそれはクラウド上で共有される。
それでも人は一つの成果物を見るために何万マイルも旅をする。
それはデータからアウトプットする物質に対するフェテェシズム?。
本当に自分が対象、空間に向き合って体験を欲望すること?。リアル
もはやそこには領域は無い。
「領域を超える」とは、「世界」の観察者が、どこに立っているかの立ち位置を表明すること。
それは「世界」の観察者の方法論にすぎない。
もはやプライバシーは存在しない。
unplugged
それでもすべてのものはデータ化されない。
そしてデータ化されないものはクラウド上で共有されない。
個人のプライヴァシーが崩壊したインターネット社会ではプライヴァシーという概念がなくなる。
クラウドコンピューティングの環境では繋がった個の記憶の共有が、自と他を分ける感覚が希薄になり大きな類の記憶に置き換えられる。
大きな物語としての歴史でなく、小さな物語の莫大な集積ビッグデータで満たされる。
クラウド、それはあたかも類としてのDNAの外在化、顕在化のようなものである。
~幸村真佐男氏のアーティストトーク 130823@N-mark 参加後に記
2013年11月15日金曜日
光琳の松島 2
から続く
再び光琳の松島図の模型を見ていて、あらためて推測したことは、左三曲と右三曲でイメージの視覚体験が異なることについての発見である。
それは、この屏風の中心に座って見る人の右眼と左眼の視覚、両眼視の視覚について関係するのではないかということだ。
ちょうど中央の折れ線を境に岩の描き方が、左三曲と右三曲で異なるのだが、右三曲の岩は光琳ではない誰かによる加筆であるという説が一般的である。それは左三曲の描き方のように塗り残しの輪郭線によって面が区切られず、面と面が片ぼかしによって接する描き方になっているからであるが、そのことが右三曲が遠景に、左三曲が近景に見える効果を表していることもまた事実であり、塗り残しの輪郭の無い片ぼかしによる右岩山は誰かの加筆によらずとも輪郭をつけない表現であったことが推測される。
座って左三曲を見ると、海岸の砂浜に立って海を見たときのように水平線が視線の上にあり、海が盛り上がって見えるのに対し、立ってこの屏風を見下ろすと右三曲は崖から見下ろした時の遠景の視界が広がる。
そして、この屏風の中央に座って見る時、右三曲と左三曲はそれぞれ右眼と左眼に対応する。
右眼は右三曲を左眼は左三曲を見ている。と思って見ている。
網膜では上下が反転し、脳みその視覚領では再び上下反転する。
それよりも横長のこの屏風を見ている視野が分割された網膜像として右眼と左眼に入った視覚情報が右脳と左脳の視覚領にどう認識されるか。
つまり両眼視で見るこの屏風のイメージは、両眼視における視覚認識を意識したか、していないかに関わらず、左右のイメージ認識についてを実践図解したような絵画になっているのではないか。
両眼視は遠近の認識に効果を発揮するのであるが、この屏風絵は左右に異なる視点で描かれたことにより、より奇妙な遠近認識を生むことになる。
つづく
2013年11月10日日曜日
131110 飯村隆彦先生のパフォーマンスを見た
2013年11月10日
record: Today's performance
Takahiko Iimura Film Performance "DADA'62"
@ NAGOYA City Art Museum
2013年10月25日金曜日
2013年10月15日火曜日
構造的な色
画面の上で色を作るということは絵具としての彩色、塗装とは異なる。
絵具というのは物質の化学変化の状態を時間経過を並列させて共時的に見せるということである。
同一画面で、視られる時に同時間に見せるということ。(シュレディンガーの猫)
視ている時にのみ存在する、作者によって仕組まれた物質の時間的経過の並列。
"L'ANNUNCIAZIONE" (1984年制作)では、以下の方法でアルミ地に暗灰色の面を作った。
油性インクマーカーにより図象を描く。あるいはアクリルラッカーによりシルクスクリーンで図象を印刷。
エッチング版画用の塩化第二鉄溶液を塗布。
油性インクマーカーで描かれた部分、あるいはシルクスクリーン印刷以外の部分を腐蝕。
変化の後、アクリルラッカーで印刷された部分をシンナーで洗い落とす。
これは、画面上で色を作るというよりも、反射の異なる面を作るという目的に拠っている。
反射の異なる面を作成したその後に、岩絵具(番目の異なる数種の岩群青)をカシュー(人造漆)に溶きピクセルを描く。
光琳の《紅梅白梅図屏風》の中央部の川に明礬によるマスキングが使用されていることを知ったのは20年以上たって後のことである。
*明礬によるマスキングと硫化という現象を用いて定着された光琳筆《紅梅白梅図屏風》の中央の川
まず川をイメージした面に薄い銀箔を張り、明礬液で流水紋の図柄を描く。その上から硫黄の粉末をかけて3日間寝かせておくと、明礬液で描いた図柄以外のところの銀が硫化されて黒い硫化銀となる。
明礬液をマスキングとして使用し、それ以外の部分を画面上で直接化学変化を起こし色として定着する。その現象を定着する。
(2011/12/19 NHK「極上美の饗宴」と2012/02/05 NHK「日曜美術館」で報告された光琳作《紅梅白梅図屏風》の中央の川についての科学的調査の結果による。)
絵具というのは物質の化学変化の状態を時間経過を並列させて共時的に見せるということである。
同一画面で、視られる時に同時間に見せるということ。(シュレディンガーの猫)
視ている時にのみ存在する、作者によって仕組まれた物質の時間的経過の並列。
L'ANNUNCIAZONE /1984 / Kiminari Hashimoto / 130 x 130 cm / Oil, pigment(Iwaenogu) on rusted aluminium / |
"L'ANNUNCIAZIONE" (1984年制作)では、以下の方法でアルミ地に暗灰色の面を作った。
油性インクマーカーにより図象を描く。あるいはアクリルラッカーによりシルクスクリーンで図象を印刷。
エッチング版画用の塩化第二鉄溶液を塗布。
油性インクマーカーで描かれた部分、あるいはシルクスクリーン印刷以外の部分を腐蝕。
変化の後、アクリルラッカーで印刷された部分をシンナーで洗い落とす。
これは、画面上で色を作るというよりも、反射の異なる面を作るという目的に拠っている。
反射の異なる面を作成したその後に、岩絵具(番目の異なる数種の岩群青)をカシュー(人造漆)に溶きピクセルを描く。
光琳の《紅梅白梅図屏風》の中央部の川に明礬によるマスキングが使用されていることを知ったのは20年以上たって後のことである。
*明礬によるマスキングと硫化という現象を用いて定着された光琳筆《紅梅白梅図屏風》の中央の川
まず川をイメージした面に薄い銀箔を張り、明礬液で流水紋の図柄を描く。その上から硫黄の粉末をかけて3日間寝かせておくと、明礬液で描いた図柄以外のところの銀が硫化されて黒い硫化銀となる。
明礬液をマスキングとして使用し、それ以外の部分を画面上で直接化学変化を起こし色として定着する。その現象を定着する。
(2011/12/19 NHK「極上美の饗宴」と2012/02/05 NHK「日曜美術館」で報告された光琳作《紅梅白梅図屏風》の中央の川についての科学的調査の結果による。)
眼差しのゆくえ
建仁寺の二つの双龍図。
一つは海北友松による障壁画。(建仁寺本坊大方丈障壁画 礼の間「雲龍図」8面)
これは二面が障子でその対角線に二面の襖に描かれている。(重要文化財 京都国立博物館寄託で建仁寺の展示はキャノン「綴」プロジェクトによる)
http://canon.jp/tsuzuri/
南面の縁側から正面と左面の龍を見るとどちらの龍もこちらを見つめている。
また、東面の廊下から正面と右面の同じ龍を見ると、この時も二つの龍はこちらを見ている。
この部屋で修行する僧は、どこからも双龍によって見つめられる。にらまれている。
もう一つの双龍図。
講堂天井に描かれたそれは見上げる私たちに視線を交合わせない。
二つの双龍図の目の描き方が、視る者との眼差しに関係する。
白目の左下に黒目を描かれた龍と、白目の右下に黒目を描かれた龍の二つの龍が配置された海北友松の雲龍図。
白目の左上に黒目を描かれた龍と、白目の右上に黒目を描かれた頭部を近づけて龍が向き合う天井画の双龍図。
>思考の飛躍
言語獲得以前の赤子の視線についての実験報告
言語獲得段階の赤子はモノを指し同時に同意を求めるように人の顔を見る。
この段階で赤子の視覚はまだ完成されていないが、人の顔の目を伺い見ていることが実験で報告された。
顔の中の二つの丸い瞳の動きをピントが合っていない視覚で赤子は追いかけながら他者の同意を得るように言語を獲得する学習を行っている。
ぼんやりした視覚の中で、眼差しの行方とその表情を追うことで、視られることを意識しながら言葉の獲得と認知を学習する。
一つは海北友松による障壁画。(建仁寺本坊大方丈障壁画 礼の間「雲龍図」8面)
これは二面が障子でその対角線に二面の襖に描かれている。(重要文化財 京都国立博物館寄託で建仁寺の展示はキャノン「綴」プロジェクトによる)
http://canon.jp/tsuzuri/
南面の縁側から正面と左面の龍を見るとどちらの龍もこちらを見つめている。
また、東面の廊下から正面と右面の同じ龍を見ると、この時も二つの龍はこちらを見ている。
この部屋で修行する僧は、どこからも双龍によって見つめられる。にらまれている。
もう一つの双龍図。
講堂天井に描かれたそれは見上げる私たちに視線を交合わせない。
二つの双龍図の目の描き方が、視る者との眼差しに関係する。
白目の左下に黒目を描かれた龍と、白目の右下に黒目を描かれた龍の二つの龍が配置された海北友松の雲龍図。
白目の左上に黒目を描かれた龍と、白目の右上に黒目を描かれた頭部を近づけて龍が向き合う天井画の双龍図。
>思考の飛躍
言語獲得以前の赤子の視線についての実験報告
言語獲得段階の赤子はモノを指し同時に同意を求めるように人の顔を見る。
この段階で赤子の視覚はまだ完成されていないが、人の顔の目を伺い見ていることが実験で報告された。
顔の中の二つの丸い瞳の動きをピントが合っていない視覚で赤子は追いかけながら他者の同意を得るように言語を獲得する学習を行っている。
ぼんやりした視覚の中で、眼差しの行方とその表情を追うことで、視られることを意識しながら言葉の獲得と認知を学習する。
2013年10月3日木曜日
貫入と釉薬剥離 -dolomite production
dolomite production における貫入と釉薬剥離
低温の陶器は結構難しいプロダクトである。大陸の工場で生産を行った時に何度も経験する貫入や釉薬剥離、シバリング問題。
基本的には生地の熱膨張率と釉薬の熱膨張率があってないことによるが、白雲(ドロマイト)や半磁器は本焼成温度が磁器ほど高くないため(釉薬と生地の融点が近いため)原料調合が難しいのだと思う。磁器などの本焼成が高温のものの方がある意味容易であるのだろう。それが証拠に磁器の方が値段が安かったりするし、工場数も多いのではないか?
冷凍餃子や中国工場で作った製品の品質問題が日本社会をにぎわせた2007年頃、土鍋から鉛問題も起こった。この時、僕が推測したのは、重金属に汚染された陶土や上絵具からの流出とかでなく、生産効率を上げるために鉛を多くした釉薬を使用したのではないかと思ったのである。
はんだ付けで使用する半田が鉛とスズの合金であり、合金にすると融点が下がる。
また鉛の融点は327.5℃、カドミウムの融点も321.1°C。
このことを応用して、生産性を上げようとすれば、釉薬に鉛やカドミを混ぜれば融点が下がり窯効率がよく生産性が上がる。しかし、鉛やカドミウムは人体に有害である。
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【ニトリで買った中国製土鍋から銀色の異物が出てきたのですが、大丈夫?】質問者:MUD-Water質問日時:2007/05/30 15:22回答数:8件「ニトリ」が販売した中国製の土鍋(新潟県内の陶磁器業「ホリシン」が輸入)からの「鉛」検出。問題の土鍋は、電磁誘導加熱(IH)調理器で約三十分加熱したところ、ふたと接する部分から鉛を含んだ液体が流れ出たという。・・・・・・土鍋を販売していたニトリは自主回収を決めたが、判断はあくまで企業自身に委ねられている。----我が家にも中国製の土鍋があります。・・・熱しているうちに、鍋の辺りに、次第に銀色の異物が浮き上がった。・・・・・・例えば、この中国製土鍋の場合、使用しているうちに、欠けたり、薄くヒビが入ります。そして、「地」が露出します。中国の土は鉛・カドミウムなどによる汚染が激しく、水質の汚濁も激しく、中国では癌患者が急激に増えているという。重金属に汚染される「中国の土」を素材に作った土鍋の安全性は大丈夫なのでしょうか?・・・
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2013年9月5日木曜日
顔本「つながりやまい」-00資料
「インターネット環境の社会で個人のプライヴァシーはない。」 幸村真佐男
said Masao Kohmura @ artist talk on 23. AUG
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2013.9.5 THU
「あなた」は特定可能:崩壊する個人プライヴァシー
日々テクノロジーによって便利になるわたしたちの生活。しかしそれと引き換えに大切なものを失っているかもしれない。最近の研究では、わずかでも情報さえあれば個人の割り出しが可能になってしまうというもの。デジタルの世界で自分を守ることは、もはや不可能なのかもしれない……。
TEXT BY SANAE AKIYAMA
http://wired.jp/2013/09/05/privacy/
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said Masao Kohmura @ artist talk on 23. AUG
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2013.9.5 THU
「あなた」は特定可能:崩壊する個人プライヴァシー
日々テクノロジーによって便利になるわたしたちの生活。しかしそれと引き換えに大切なものを失っているかもしれない。最近の研究では、わずかでも情報さえあれば個人の割り出しが可能になってしまうというもの。デジタルの世界で自分を守ることは、もはや不可能なのかもしれない……。
TEXT BY SANAE AKIYAMA
http://wired.jp/2013/09/05/privacy/
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2013年9月3日火曜日
2013年8月24日土曜日
顔本「つながりやまい」 2011/07/02 am01:56
第 0 章
つながりやまい
つながりやまい
今の時代、たいがいの事は狭い範囲のネットワークで繋がっていて、何かを調べようとするとなんでも調べがついてしまう。
「つながりやまい」というやつだ。
彼はそういったたぐいの一切から手を切ろうとノートパソコンやあらゆる繋がりにまつわる端末というものをゴミ箱に投げ入れ、紙と鉛筆の暮らしに戻ろうとしていた。
少なくとも、その一年前の夢を思い出すまでは。
その夢はあまりにも鮮明にイメージを結んでいたために彼は眼を覚ましてすぐ傍らのノートにそのイメージを描き止めなければならないと思いそうしたのだ。
そしてたまたまそのノートが一年後にそのページを開いたのだ。
そこに記された簡単なメモとイメージの落書きはアニメのネームのような映像的なものだった。
>
ズームインしてゆくその光景が顔のアップになったとたんアニメのネームの、綾波レイの、ラフコンテの、ざらついた紙に走らせたダーマトグラフで描かれた線描きになり、もっともっと近づいてゆくその目と鼻から黒いドロリとした血のような物を流しだすその光景に、思わず「大丈夫か!」叫んで眼を覚ました朝のことを。
>
(この部分ベツページへトブ)
「つながりやまい」は凡庸な人びとからも確実に一つの感情を消し去ってしまう病気なのだ。その流行は人間の類から「○○」というものを完全に消し去ってしまった。あるいは脳松果体の奥の襞にしまいこまれてしまった。
国境や宗教を越境しあらゆる地域で同時に流行したこの病は我耳、尾様、石場、穐本、生まれる場所が同じ小さな町内なら彼等と物理的に同級生だったかも知れぬ顔にまつわるニュース、彼にとってどれも直接日常生活に支障をきたすことのない関係ないニュースを伝染させていた。
経済犯で当局に拘束された我耳、特殊部隊によって十五分で処理された尾様、鉄道オタクの石場、マーケッティングをしないで流行りを仕組むと豪語する穐本。いずれも彼と同年齢であるということだけが彼にとってのつながりやまいであった。
「あなたは何に対して嫉妬しているの」
彼女は不思議そうな顔で私の顔を覗き込んでこう言った。
「若さというその一点」
「あるいは、自分が体験していないおまえとの20年間という時に対して」
彼女は不思議そうな顔で私の顔を覗き込んでこう言った。
「若さというその一点」
「あるいは、自分が体験していないおまえとの20年間という時に対して」
「それがどうだ、この顔本のせいでそんな刹那さという20世紀の感情さえもすっかりと消し去られてしまったのだ。」
「そんなことはないわ」
自信に満ち溢れた口調できっぱりと発せられる言葉。
「一体何が失われたというの。」
「何よりもゴトーを待つという行為と、その時の感情。」
そして
「すぐに、いつも現在に繋がってしまういらだち!」
「まったくあきれた病気ね、あなたは」
「昔からそうだったけど。私、ここで失礼するわ。とにかく今晩0時からの受注準備で忙しいの。」
そう言うと彼女は席を立ち、カランカランという扉の閉まる音を残してカフェを出て行った。
2013年8月13日火曜日
130813 朝から肉を焼く
テレビで、瀬戸内寂聴、曰く
「芸術家は肉を食べなきゃだめよ」
なんとなく納得。「最近、肉、食ってないなぁ」と朝から肉を焼く。
国産芸術品でない南半球のものだが。
ケモノのにほい。
fb 橋本 公成
2013年8月13日
2013年8月12日月曜日
130812 玄関に精霊かりて父還る
焼けつくアスファルトに覆い尽くされた大阪街中の実家。
母曰く。
旧盆入りの日、こんなところにいるはずの無い精霊蝗虫が玄関にはいってきた。
「お父さんがバッタになってお盆に帰ってきた」
と手を差し伸べるとちょこんと手に飛び乗った。
「ちっとも逃げず、ずっと手に停まっていたあれはお父さんやな」
初盆の法要で坊さん曰く。
「人はみな成仏した時点でずっとここにいたはります。お墓に行ったり、家の仏壇に帰ってきたりするのではなく、ずっと私たちのそばにいて見守ってくれてはるんです。」
玄関に 精霊かりて 父還る
人は信じたいように現実を見る。信仰とファンタジー。
それにしても茹だるを通り越して焼けつく鉄板の上にいるような40℃ちかいここ数日。
5時に起きて墓参り。
線香に火を点けるための紙を燃やすと、火種の点がLEDの点滅回路のように激しい動きを見せる。
そして紙は灰も残さず、跡形もなく一瞬で燃えきってしまった。
2013年8月12日 6:30
場所: 大阪市田辺
2013年8月8日木曜日
2013年7月9日火曜日
2013年6月25日火曜日
2013 spring-summer
5年前から始まった全コースからの選択授業の造形交流演習。
3年前からは同じ内容がイラストコースでの必須になり、週二日、ほぼ同じ内容の授業を二つ追いかけあいながら進行する。
4/12/2013 交流演習授業初日
http://www.nzu.ac.jp/~choukoku/blog/?p=1977
ローズ オニール、トーベ ヤンソン、ベアトリクス ポター
授業初日はいつも3人の女性アーティストの話からはじめる。
挿絵(イラスト)からキャラクターへ、そしてフィギュリンへつなげる百年近く前からのお話。
それからライセンスビジネスと生産現場。その話のすべては、大学にくることになったことになった頃と同時期からの自身の身近な経験と現場の話に基づいている。
今まで多目的な大きな一つの空間だった工房がパーティションによって三つに区切られた今年、圧迫感のある窮屈な環境に。
必要なのは最低限の作業空間ではなく、空間の中で捉えるという感覚。
二畳の小さな部屋の机の上で作られた手のひらサイズのものと、天井高4m近くある二十畳の部屋で作られた手のひらサイズのものとでは、同じ手のひらサイズのものでありながら異なった表れかたをするものである。
4/26/2013 交流演習授業3回目
http://www.nzu.ac.jp/~choukoku/blog/?p=2055
割った竹からへらを作る。手の延長としての道具。
自身の手になじみ、指のように無意識に、身体の一部のように動くようになれば粘土が形になってゆく。自身の身体の一部になる良い道具は、その後、長きに渡りよき伴侶になる。
5/1/2013 イラストコース1年立体表現
http://www.nzu.ac.jp/blog/illustration/archives/1947
蛙目による彫塑。
手に持った感触、指で押さえた時の弾力、可塑性を感じること。
水分を調節し素材の息吹きを感じ取れるようになれば自然に手が動くようになる。
素材の状態を把握できれば、土の方から、次のへら入れの部分をせかしてくるようになる。
5/10/2013 交流演習授業4回目
http://www.nzu.ac.jp/~choukoku/blog/?p=2121
なにげなく紙の上にひかれた自分の線をよく視る、その意味を考える。
紙の上の線を置き換える。空間とそこにある粘土の塊の境界について。
石膏デッサンと逆の作業。翻訳のようなもの。
作ることばかり考えず、半分はよく視るという作業。
絵が描ければ苦も無く立体は作れるし、立体が作れれば絵は描ける。
視ることがそのまま無意識に手に伝わり、道具が身体の一部になり、素材の状態が聞こえるようになれば、紙のイメージが自ずと立体として立ち現れる。
5月末から6月の初め、ちょうど梅雨の頃に型取りがはじまる。
3年前からは同じ内容がイラストコースでの必須になり、週二日、ほぼ同じ内容の授業を二つ追いかけあいながら進行する。
4/12/2013 交流演習授業初日
http://www.nzu.ac.jp/~choukoku/blog/?p=1977
ローズ オニール、トーベ ヤンソン、ベアトリクス ポター
授業初日はいつも3人の女性アーティストの話からはじめる。
挿絵(イラスト)からキャラクターへ、そしてフィギュリンへつなげる百年近く前からのお話。
それからライセンスビジネスと生産現場。その話のすべては、大学にくることになったことになった頃と同時期からの自身の身近な経験と現場の話に基づいている。
今まで多目的な大きな一つの空間だった工房がパーティションによって三つに区切られた今年、圧迫感のある窮屈な環境に。
必要なのは最低限の作業空間ではなく、空間の中で捉えるという感覚。
二畳の小さな部屋の机の上で作られた手のひらサイズのものと、天井高4m近くある二十畳の部屋で作られた手のひらサイズのものとでは、同じ手のひらサイズのものでありながら異なった表れかたをするものである。
4/26/2013 交流演習授業3回目
http://www.nzu.ac.jp/~choukoku/blog/?p=2055
割った竹からへらを作る。手の延長としての道具。
自身の手になじみ、指のように無意識に、身体の一部のように動くようになれば粘土が形になってゆく。自身の身体の一部になる良い道具は、その後、長きに渡りよき伴侶になる。
5/1/2013 イラストコース1年立体表現
http://www.nzu.ac.jp/blog/illustration/archives/1947
蛙目による彫塑。
手に持った感触、指で押さえた時の弾力、可塑性を感じること。
水分を調節し素材の息吹きを感じ取れるようになれば自然に手が動くようになる。
素材の状態を把握できれば、土の方から、次のへら入れの部分をせかしてくるようになる。
5/10/2013 交流演習授業4回目
http://www.nzu.ac.jp/~choukoku/blog/?p=2121
なにげなく紙の上にひかれた自分の線をよく視る、その意味を考える。
紙の上の線を置き換える。空間とそこにある粘土の塊の境界について。
石膏デッサンと逆の作業。翻訳のようなもの。
作ることばかり考えず、半分はよく視るという作業。
絵が描ければ苦も無く立体は作れるし、立体が作れれば絵は描ける。
視ることがそのまま無意識に手に伝わり、道具が身体の一部になり、素材の状態が聞こえるようになれば、紙のイメージが自ずと立体として立ち現れる。
5月末から6月の初め、ちょうど梅雨の頃に型取りがはじまる。
2013年6月15日土曜日
横長の大きな絵画 (映像体験としての絵画~曾我蕭白の雲龍図)
視線に対し垂直に対峙する横長に広がる大きな絵画。
大きいという基準は、平面に垂直に対峙した時に、視界に歪まず納まりきらない大きさ。
渋谷にある岡本太郎の「明日の神話」のような、
ボストン美術館所蔵、曾我蕭白の雲龍図(襖絵)しかり。
それは、その平面、イメージが描かれた面自体が遠近法の影響を受けるほどのもの。
横長の中心に立って右側を見る時、
横長の中心に立って左側を見る時、
それぞれからの視点によってイメージは大きく変化する。
蕭白の龍の大きな顔、その漫画的な大きな目とその間の鼻筋。正面と側面が同一画面に描かれているキュービズム的という見方もあるこの顔はどうか。
この顔の正面に立ち、龍の左目を隠すと側面の龍の顔のイメージが立ち現れるが、両目と鼻面だけに視界のピントを合わせれば側面図から正面図に移動する。
里帰りしたボストン美術館展(名古屋)で展示された状態は、この襖絵のすべてのパーツを制作された当時の展示空間に忠実に展示されたわけではないため、より違和感を覚え、焦点は龍の顔のみがクローズアップされる。
しかし、この襖が製作された当時の空間配置で展示されたならばどうだろう。
この想像は、欠落した他の屏風を補完しなければならないが、少なくとも顔の部分についての想像を働かせるなら、この襖を正面から近づいたり遠のいたりという鑑賞法だけでなく、歩きながら正面から側面から移動しつつ鑑賞しなければ本来のこの絵の体験でないことがわかる。
そうすれば、前述の龍の顔が側面図から正面図に移行していく状態が違和感なく受け入れられるのだ。
正面だけでなく対象の側面からの視界の重要性。
私たちは正面から画面全体を視るという西洋近代絵画(タブロー)としての鑑賞方法にあまりにもとらわれすぎている。
特に、蕭白の雲龍図のような日本の、壁に掛けられることを前提としない、タブローでない絵画、を視る作法は西洋近代絵画のそれと異なる。
それは西洋のいう「絵画」というものと別の「視覚体験装置」といってよいものである。
映像の世界ではテレビが登場した時の画面、スタンダードサイズ 3:4 アスペクト比 1.33
その後、テレビに対抗するように映画業界から登場したワイドスクリーンとシネマスコープ。
ワイドスクリーン(ビスタサイズ)は 3:5.55 アスペクト比 1.85
シネマスコープ(スコープサイズ)は 3:7.05 アスペクト比 2.35
映像装置という要素だけを取り出して見るならば、古典的テレビが家庭内空間での額縁に囲われた西洋近代絵画の延長としてのオブジェクトであり、映画は暗闇の中で視界を覆う現実に近づこうとした映像体験装置であった。
その体験は日常空間から出かけて行き、意志的に非日常体験を望む環境で体験される。
映像が投影されるスクリーンからオーディエンスまでの距離にもよるが、オーディエンスの視界は映像の中の出来事を注視していく中でそのフレームの縁は意識されなくなる。
映画の世界ではその中で起こっている映像内時間の体験に注視しながらオーディエンスは静止した視覚での体験を要求される。
しかし、映像投影スクリーンに近い大きさ、比率の絵画の場合、私たちはそれを、一点に静止し鑑賞するのではなく、また、近づいたり遠のいたりして見るだけでなく、行ったりきたりしながら側面からも見なければならない。立ったり屈んだりしながら見なければ本当の制作者の提供しているイメージの体験を共有することはできない。
それは、立体物を正面から鑑賞するだけでなく、その周りをぐるぐるまわることで静止した対象が動き出すという体験に近いものである。
大きいという基準は、平面に垂直に対峙した時に、視界に歪まず納まりきらない大きさ。
渋谷にある岡本太郎の「明日の神話」のような、
ボストン美術館所蔵、曾我蕭白の雲龍図(襖絵)しかり。
それは、その平面、イメージが描かれた面自体が遠近法の影響を受けるほどのもの。
横長の中心に立って右側を見る時、
横長の中心に立って左側を見る時、
それぞれからの視点によってイメージは大きく変化する。
蕭白の龍の大きな顔、その漫画的な大きな目とその間の鼻筋。正面と側面が同一画面に描かれているキュービズム的という見方もあるこの顔はどうか。
この顔の正面に立ち、龍の左目を隠すと側面の龍の顔のイメージが立ち現れるが、両目と鼻面だけに視界のピントを合わせれば側面図から正面図に移動する。
里帰りしたボストン美術館展(名古屋)で展示された状態は、この襖絵のすべてのパーツを制作された当時の展示空間に忠実に展示されたわけではないため、より違和感を覚え、焦点は龍の顔のみがクローズアップされる。
しかし、この襖が製作された当時の空間配置で展示されたならばどうだろう。
この想像は、欠落した他の屏風を補完しなければならないが、少なくとも顔の部分についての想像を働かせるなら、この襖を正面から近づいたり遠のいたりという鑑賞法だけでなく、歩きながら正面から側面から移動しつつ鑑賞しなければ本来のこの絵の体験でないことがわかる。
そうすれば、前述の龍の顔が側面図から正面図に移行していく状態が違和感なく受け入れられるのだ。
正面だけでなく対象の側面からの視界の重要性。
私たちは正面から画面全体を視るという西洋近代絵画(タブロー)としての鑑賞方法にあまりにもとらわれすぎている。
特に、蕭白の雲龍図のような日本の、壁に掛けられることを前提としない、タブローでない絵画、を視る作法は西洋近代絵画のそれと異なる。
それは西洋のいう「絵画」というものと別の「視覚体験装置」といってよいものである。
映像の世界ではテレビが登場した時の画面、スタンダードサイズ 3:4 アスペクト比 1.33
その後、テレビに対抗するように映画業界から登場したワイドスクリーンとシネマスコープ。
ワイドスクリーン(ビスタサイズ)は 3:5.55 アスペクト比 1.85
シネマスコープ(スコープサイズ)は 3:7.05 アスペクト比 2.35
映像装置という要素だけを取り出して見るならば、古典的テレビが家庭内空間での額縁に囲われた西洋近代絵画の延長としてのオブジェクトであり、映画は暗闇の中で視界を覆う現実に近づこうとした映像体験装置であった。
その体験は日常空間から出かけて行き、意志的に非日常体験を望む環境で体験される。
映像が投影されるスクリーンからオーディエンスまでの距離にもよるが、オーディエンスの視界は映像の中の出来事を注視していく中でそのフレームの縁は意識されなくなる。
映画の世界ではその中で起こっている映像内時間の体験に注視しながらオーディエンスは静止した視覚での体験を要求される。
しかし、映像投影スクリーンに近い大きさ、比率の絵画の場合、私たちはそれを、一点に静止し鑑賞するのではなく、また、近づいたり遠のいたりして見るだけでなく、行ったりきたりしながら側面からも見なければならない。立ったり屈んだりしながら見なければ本当の制作者の提供しているイメージの体験を共有することはできない。
それは、立体物を正面から鑑賞するだけでなく、その周りをぐるぐるまわることで静止した対象が動き出すという体験に近いものである。
「つまらないこと」あるいは「コンセプチュアルアート・ライト」
つまらないことは、興味や意欲、行動や衝動、あらゆる”人”の行動にネガティブに作用するだけでなく感受性さえも枯渇させる。
栗原はるみ氏曰く。
「決めるからつまらなくなる」
「ルールを作ると嫌いになっちゃう」
「作る人がルール」
完全なる自由を獲得していなければならないはずの「アーティスト」と称する人が時に正反対のことを言い、興ざめする。
狭い地域やソサエティー、わずかの時間的経過を歴史と錯覚したルールに囚われた、真面目に、こぎれいに仕上げられた、不自由な成果物。
狭いルールがレギュレーションの内側で生きていくのは自由だが、つまらないモノや事を再生産することは避けなければならない。
言い換えれば、「アート」に成る可能性を持った成果物は言語化される部分がどれだけ整合性を持って完結しているかが重要なのではない。
言語化されえない得体の知れないデモーニッシュなアニマがないものに「アート」と称するものが入り込む余地はない。
それは「コンセプチュアルアート・マイルド」とか「コンセプチュアルアート・ライト」と呼ばれるタバコの銘柄のようなものにすぎない。
栗原はるみ氏曰く。
「決めるからつまらなくなる」
「ルールを作ると嫌いになっちゃう」
「作る人がルール」
完全なる自由を獲得していなければならないはずの「アーティスト」と称する人が時に正反対のことを言い、興ざめする。
狭い地域やソサエティー、わずかの時間的経過を歴史と錯覚したルールに囚われた、真面目に、こぎれいに仕上げられた、不自由な成果物。
狭いルールがレギュレーションの内側で生きていくのは自由だが、つまらないモノや事を再生産することは避けなければならない。
言い換えれば、「アート」に成る可能性を持った成果物は言語化される部分がどれだけ整合性を持って完結しているかが重要なのではない。
言語化されえない得体の知れないデモーニッシュなアニマがないものに「アート」と称するものが入り込む余地はない。
それは「コンセプチュアルアート・マイルド」とか「コンセプチュアルアート・ライト」と呼ばれるタバコの銘柄のようなものにすぎない。
縦長の大きな絵画
87年、シカゴ・アート・インスティテュートでキーファーの展覧会を見た。
その時、垂直に落ちてくる3m以上の縦長の絵画もあった。
「大きい」と言う基準はどこからをさすか。
それは、身体のサイズとその器としての建築インテリアに規定される。
誰かが日本のアートは「四畳半アート」と言った。
住居の階下に制作場として借りていた勝川のアパート1Fは6畳+4畳半+板の間台所2畳。
そこで3m以上の縦長の作品の制作を試みた。
誰かに頼まれたわけでもない作品。自分でそれを見てみたいと欲求したからだ。当然、制作現場に規定される作品は分割して作成するしかない。出来上がりを予想するために横に寝かした状態で写真撮影し、その写真を90度回転させて確認するしかない。しかしそれはあくまでカメラの単眼視。
自分で欲求したそれを、とにかく建築空間内で見てみたいと思った。
そんな時、名古屋の伏見で天井の高い空間を見つけた。
そして、その空間を開いていた二週間借りた。
それが初めての名古屋での個展。
追記:関連ページ ----------
Another work in '80 : masking tape drawing with spray painting 2019年2月8日
about my work: Fired works / fire painting 2016年10月8日
made from wooden mold 1990 DEC. 木型による陶の生成 2016年5月4日
2013年5月18日土曜日
我在中国的朋友到了日本
2013年3月9日土曜日
2013/03/09 枝垂れ梅、八分咲き
左下肢脹脛から太腿付根に至る激痛一ヶ月前から治まらず。
三ヶ月前から五十肩も回復せず。
まったりカフェのつもりが座っているとより痛い。
そうだ、歩こう。山ならなお良い。と、カミさんに提案。
閉園まぎわの農業センターへ。
この時期、センター正面駐車場入り口は長蛇の列。
針名神社の駐車場に車を止め、センター裏側より入るのがお勧め。
20℃超えの今日は、枝垂れ梅が八分咲き。
2013年3月9日 fm fb
2013年3月7日木曜日
Underglaze painting technic 3 - masking
Underglaze painting technic 2 - marbling
2013年3月4日月曜日
latex breast
AUG.1999 ( color laser printed size 1/1) |
1999
21.AUG.1999ビデオ作品 "REPRODUCTION"の特殊撮影用として制作。
キャストラテックス、ラテックスチューブ、シート
アクリル樹脂彩色
生体より石膏凹型2種作成
成形したニップルの裏側にチューブを接続。
遠隔操作可能。出演者が着用して使用。
左写真はカラーレーザー複写機原稿台に現物を置き、複写したもの。
MAR.2013 |
左2番目の写真は2013年の状態。
ラテックスは可塑性を失い、各部分が合体。
原型をとどめない状態。
SEP.1999 installation view (ex.given 7) |
左3番目の写真はSEP.1999 名古屋港ガーデン埠頭20号倉庫でのスチール写真、絵コンテとなどと展示した時の物。
忘れてしまっていたが、この写真より撮影用スーツは3種作成していたことになる。
2013年1月5日土曜日
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